鞆の浦
Takehara, Hiroshima

鞆の浦は、広島県福山市の中心部から
南に14km程のところにある港町です。

古くから汐待の港として知られ、北前船の寄港地でもありました。
江戸時代に幕府を訪れていた朝鮮通信使も鞆の浦に寄港しています。

鞆の浦は、また風光明媚なところで、
美しい瀬戸内海の景色が広がっています。
朝鮮通信使として鞆の浦を訪れた李邦彦は、
鞆の浦の光景を日本で一番美しい光景と称えたそうです。

鞆の浦は、室町幕府の成立と終焉に拘り、
また幕末には、坂本龍馬がいろは丸事件で
紀州藩との談判を行った場所でもあります。

2012年7月に呉線に乗車し、竹原を
訪れた後に、鞆の浦を訪れました。
その時の様子を紹介します。

呉線の乗車記はこちらです。
竹原の散策記はこちらです。

福山駅から鞆の浦へ
(Fukuyama Station to Tomonoura)
July 29, '25

福善寺對潮楼~對潮楼周辺の散策
(Fukuzenji Temple and its' Surrounding)
Aug. 12, '25

圓福寺~鞆の浦常夜灯
(Enfukuji Temple to Tomonoura Port)
Aug. 15, '25

鞆の浦常夜灯~医王寺~妙蓮寺
(Tomonoura Port to Iouji and Myorenji Temples)
NEW! Aug. 25, '25

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福山駅から鞆の浦へ
(Fukuyama Station to Tomonoura)

福山駅から鞆の浦までは、14km程離れており、バスで移動しました。
1913年(大正2年)に鞆鉄道が12.5kmの軽便鉄道を開業しています。
残念ながら1954年(昭和29年)に廃線になっています。


撮影: 2012年7月

上の写真は福山駅で乗車した鞆港行のバスです。
休日の午後、そこそこの乗車がありました。


撮影: 2012年7月

福山の街を抜け、芦田川を渡りました。


撮影: 2012年7月

この芦田川の川底には、鎌倉時代から室町時代にかけて
栄えた草戸千軒町の遺跡が眠っていると伝わります。
福山城址の歴史博物館でこの遺跡の事を知りましたが、
かつての失われた文明の発掘は胸がときめきます。

芦田川を渡ってさらに15分程走ると、
瀬戸内海を眺めながら走るようになりました。


撮影: 2012年7月

道路が海岸線に沿っているので、瀬戸内海の
景色が手に取るように眺められました。

しばらくこの景色を眺めるうちに
鞆の浦の集落へと入っていきました。


撮影: 2012年7月

鞆の集落に入りました。


撮影: 2012年7月

鞆の浦のバス停に着いたので、ここで下車しました。


撮影: 2012年7月

いよいよ鞆の浦の集落の散策が始まりました。

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福善寺對潮楼~對潮楼周辺の散策
(Fukuzenji Temple and its' Surrounding)

鞆の浦のバス停は、鞆の浦の集落の中央部の海岸線にあります。
バスを降りて、集落に入ると桝屋清右衛門宅跡がありました。


撮影: 2012年7月

桝屋清右衛門は廻船問屋を営んでおり、幕末の1867年(慶応2年)に、
坂本龍馬率いる海援隊が運行していた「いろは丸」と、
紀州藩の明光丸とが、鞆の浦沖で衝突事故を起こした際、
賠償交渉を行う為に坂本龍馬らが滞在しています。

桝屋清右衛門宅跡から南に向かうと
仙酔島の右手に弁天島が見えていました。


撮影: 2012年7月

この近く、道路沿いに古い建物が見えてきました。


撮影: 2012年7月

この建物には1814年(文化2年)に頼山陽が宿泊した際に、
仙酔島の景色が素晴らしく、対仙酔楼と名付けたそうです。

更に南に向かうと、高台に建つ福禅寺對潮楼が見えてきました。


撮影: 2012年7月

對潮楼は1690年頃(元禄年間)に建てられ、
朝鮮通信使の迎賓館として使われていたようです。

この地の風光明媚さは、對潮楼が建てられる前から
朝鮮の人には知られていたようで、對潮楼が建てられた後も
對潮楼からの景色についての記録が残っているそうです。

對潮楼から東には、瀬戸内海に浮かぶ弁天島と仙酔島が見えています。
南には、小高い丘の上に建つ圓福寺が見えていました。


撮影: 2012年7月

幕末のいろは丸号事件の際には、この福禅寺で
海援隊と紀州藩の賠償金の交渉が行われています。
坂本龍馬も、この景色を眺めたに違いありません。

福禅寺を辞し、近くの集落を散策しました。
福禅寺の北西の路地の様子です。


撮影: 2012年7月

黄土色の外壁の建物は、古風な佇まいです。
170年ほど前に建てられたそうですが、今は
ホテルとして利用されているようです。

ここから西に向かうと「鞆の津の商家」がありました。


撮影: 2012年7月

江戸末期に建てられた商家の建物です。
隣接する土蔵は明治に移築されたそうですが、
建てられたのは母屋と同じく江戸末期だそうです。

「鞆の津の商家」の内部の様子です。
建物の入り口に近い店の間と思います。


撮影: 2012年7月

昔ながらの商家の佇まいが残っていました。

「鞆の津の商家」から南に下ると、「旧魚屋萬蔵宅」があります。


撮影: 2012年7月

この「旧魚屋萬蔵宅」も、いろは丸号事件の談判が行われた場所です。
一時は空き家となり、解体の危機もあったそうですが、
「鞆まちづくり工房」が購入し、一階は喫茶、
二階は船宿として蘇ったそうです。


撮影: 2012年7月

「旧魚屋萬蔵宅」には、立派な暖簾が掲げられていました。
松右衛門帆は、兵庫県高砂の帆布製品のブランドです。

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圓福寺~鞆の浦常夜灯
(Enfukuji Temple to Tomonoura Port)

對潮楼周辺の散策の散策を終え、
次にはその南にある圓福寺を訪れました。


撮影: 2012年7月

圓福寺は、鞆の浦の集落の南に半島の様に突き出た高台にあります。
鞆の浦の港を囲む高台の麓からは鞆の浦の港が一望出来ました。


撮影: 2012年7月

狭い路地を抜け、圓福寺への階段を上りました。


撮影: 2012年7月

圓福寺は、江戸時代初期の慶長年間(1607年頃)に建立されています。
戦国時代には村上水軍の拠点であり、幕末のいろは丸事件の
際には紀州藩の人たちがここで宿泊していました。

圓福寺から眺める鞆の浦の港です。


撮影: 2012年7月

その反対側には、仙酔島と弁天島が見えていました。
瀬戸内海の素晴らしい光景でした。


撮影: 2012年7月

戦国時代には、この海に村上水軍の
戦船が何艘も停泊していた事でしょう。

室町時代、圓福寺の場所には大河島城というお城がありました。
大河島城の様子は こちら をご参照願います:
http://cf916626.cloudfree.jp/Oshiromeguri/Chugoku/TaigashimaJyo.html

そして、圓福寺には、何匹もの猫がいました。
のんびり昼寝したり、じゃれ合ったりと微笑ましい様子でした。


撮影: 2012年7月

圓福寺を辞し、圓福寺の高台の南にある突堤に向かいました。
瀬戸内海に、細い堤防が延びています。


撮影: 2012年7月

上の写真の突堤の左側が鞆の浦の港、右が瀬戸内海です。
下左の写真が、鞆の浦の対岸の医王寺周辺、
下右が、瀬戸内海の眺めです。


撮影: 2012年7月

この突堤からの眺めは、とても雄大でした。
この日は曇りがちの一日でしたが、その天気故か、
迫力ある景色が眺められたと思います。

突堤から鞆の浦の集落に戻りました。
鞆の浦の港の様子です。


撮影: 2012年7月

港の岸壁は雁木と呼ばれる階段状になっています。
潮の満ち引きに依らずに、船を着岸出来るようにするためだそうです。

ここから狭い路地を抜けました。
ここは鞆の造り酒屋のお店です。


撮影: 2012年7月

ここから南に下った路地の様子です。
下左の写真の右手の建物は太田家住宅朝宗亭、
左手の建物は漢方薬酒・「十六味地黄保命酒」の
製造・販売を行っている太田家住宅です。


撮影: 2012年7月

1863年(文久3年)の八月十八日の政変の際に、
尊王攘夷派の三条実美ら7人の公卿が都落ちしていますが、
その七卿が長州藩を頼って落ち延びた際、この建物に立ち寄ったそうです。
太田家住宅朝宗亭と太田家住宅は、国の重要文化財に指定されています。

路地を抜けると、鞆の浦の港に出ることが出来ました。


撮影: 2012年7月

港の向こう側にある突堤が先ほど訪れた所です。
よくぞ、あの突堤に行ったものだと思います。

そして、港の南端には、いろは丸展示館と常夜灯がありました。


撮影: 2012年7月

この常夜灯は、1859年(安政6年)に建てられました。
当時、鞆の浦は汐待港として多くの船で賑わう港だったようです。


撮影: 2012年7月

常夜灯やその周囲の佇まいは素晴らしいものでした。

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鞆の浦常夜灯~医王寺~妙蓮寺
(Tomonoura Port to Iouji and Myorenji Temples)

鞆の浦の常夜灯から西を目指しました。
太田家住宅の南の路地を西に向かいました。


撮影: 2012年7月

この先の土蔵造りの建物の角で
右側に小路が続いていました。


撮影: 2012年7月

この小路に保命酒のお店がありました。
このお店の建物は、福山城の長屋門だったそうです。


撮影: 2012年7月

長屋門として建造されたのは江戸時代初期、
明治に入って岡本家の建物が火災に遭った為、
廃城となった福山城の城門を譲り受けたそうです。


撮影: 2012年7月

お店は多くの人で賑わっていました。

南側の道に戻り、西に向かいます。
先ほどの小路を過ぎると、観光客の姿は見られなくなりました。

しばらく海の沿った道を歩き、その後右折しました。
坂道の途中に、小さな塚がありました。


撮影: 2012年7月

この塚は平賀源内生祠です。
平賀源内は、江戸時代中期の蘭学者です。

1752年(宝暦2年)頃に長崎で一年間留学していますが、
その帰路に、鞆の浦の溝川家に立ち寄ったそうです。
その際に、焼き物の製法を伝えたようです。

生祠というのは生存中に神として祀る事だそうです。
この塚は溝川家の人が、1764年(宝暦14年)に祀っています。
平賀源内が亡くなったのは1780年(安永8年)の事でした。

この先に、医王寺があります。


撮影: 2012年7月

医王寺は、平安時代に空海によって開かれたお寺です。
江戸時代の初期、鞆の浦は福島正則の領地で、
その際に城代の大崎玄藩が再興しています。


撮影: 2012年7月

上の写真の本堂は、第4代福山藩主・水野勝種が
1685年(貞享20年)に再建したものと伝わります。

この医王寺からの、鞆の浦の眺めは素晴らしいものでした。
鞆の浦の集落と、港の様子が一望できます。


撮影: 2012年7月

先ほど訪れた大河島城跡の高台に建つ圓福寺、
これから向かう鞆城の杜など、多くの史跡も見えていました。

境内には、大伴旅人の歌碑もありました。


撮影: 2012年7月

「吾妹子が見し鞆の浦のむろの木は
とこ世にあれど見し人ぞなき」

730年(天平2年)、大宰府の長官だった大伴旅人が、
大納言に任命された為、奈良の都に向かう途中、
鞆の浦で3首を残し、そのうちの一つがこの歌だそうです。

大伴旅人が大宰府の赴任していたのは2年間の事ですが、
大伴旅人は、大宰府の地で妻を亡くし、大伴旅人自身も、
この翌年に亡くなっています。

『むろの木よ、大宰府に下る時、妻や子とお前を見たものだ。
その妻も今はこの世にはいない。
私の愛する妻の居場所を尋ねたら、応えてくれるだろうか』

医王寺から坂道を下ると、明圓寺がありました。


撮影: 2012年7月

明圓寺の前の道を西に進み、再び鞆の浦の集落に向かいます。
集落の合間から、高台に向かう石段が続いていました。


撮影: 2012年7月

この階段を上った所には鞆の浦歴史民俗資料館が建っています。
ここには、室町時代末期から江戸時代初期に、鞆城がありました。
戦国時代末期に、将軍・足利義昭が鞆の浦に
移った際、ここに居住していたと伝わります。

鞆城の登城記はこちらです。


撮影: 2012年7月

その鞆の浦歴史民俗資料館からの眺めです。
ここからの眺めも素晴らしいものでした。

鞆城址の鞆の浦歴史民俗資料館から、再び
鞆の浦の集落の西側の山の麓に向かいました。
下の写真は法宣寺です。


撮影: 2012年7月

この法宣寺は日蓮宗のお寺で、
1358年(延文3年)に創建されています。

その隣の静観寺の門です。
静観寺は平安時代初期の806年(大同元年)に
最澄によって創建された、鞆で最も古いお寺です。


撮影: 2012年7月

静観寺は、七堂伽藍や五重塔も建つ大寺だったようです。
その静観寺の門前に、山中鹿之介の首塚がありました。 (上右の写真)

山中鹿之助は、毛利氏によって滅ぼされた尼子氏の再興の為に戦った旧臣で、
1578年(天正6年)の上月城の戦いで捕らえられ謀殺されてしまったそうです。
各地にお墓があるようで、鳥取県の鹿野にもお墓がありました。

鹿野の散策記は こちら です:
http://cf916626.cloudfree.jp/Travel/Japan/Chugoku/Shikano.html

その北側には妙蓮寺がありました。


撮影: 2012年7月

この日の散策は、この妙蓮寺で引き返してしまいましたが、
後で調べてみると、この北には小松寺や沼名前神社がありました。

小松寺は1175年(安元元年)に平重盛が建立したお寺です。
足利尊氏が北朝方の光厳院から得た院宣を
奉じて都に攻め上り、天下を獲っています。

この小松寺と、足利義昭が幕府の最後に鞆の浦に移った事から
幕末に頼山陽は“足利は鞆で興り、鞆で滅びた”と喩えたそうです。
沼名前神社は延喜式に名のある神社で、秀吉が愛用したと
伝わる組み立て式の能舞台が残っているそうです。

この様に史跡の多い鞆の浦は、古い建物も数多く残り、
重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。

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