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JR西日本 / 呉線
JR West / Kure Line
呉線は、山陽本線の三原から、瀬戸内海に沿って
呉を経由して海田市に至る87.0kmの路線です。
三原から海田市は、山陽本線と並走しており、山陽本線は
この区間は、瀬戸内海から離れた山間部を経由しています。
山陽本線が開業した1894年(明治27年)当時は、急勾配を
避ける事が優先順位だったと思うのですが、この区間は、
急勾配を避けつつ最短距離を通るルートとして現在の
山陽本線のルートが選定されているようです。
この区間の山陽本線の営業キロは65.0kmです。
呉線は、上述の通り、瀬戸内海に沿って竹原、呉を経由しています。
山陽新幹線開業以前は、呉線にも優等列車が走っていました。
2012年6月に、約30年ぶりに呉線に乗車しました。
その際の様子を紹介します。
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広島 - 広
Hiroshima - Hiro

2012年7月、広島7:21発の広行に乗車しました。
国鉄時代から使用している115系電車です。
1970年代から広島地区で走り始め、乗車した
2012年の時点でも、40年近く経っています。

広島と呉との間は、利用客が多く、
日中も一時間に4本の列車が運行されています。
2012年当時、朝の7時台も3本の列車が運行されていました。
但し、乗車した7:21発の列車は空いていました。

広島を発車するとすぐに野球場が見えていました。

天神川駅を過ぎ、しばらく走ると向洋駅に着きます。
その手前で、マツダの本社が見えていました。

向洋を過ぎると、呉線の電車は
山陽本線の下り線をオーバーラップしました。

この先の海田市を出ると山陽本線と
呉線は、あっさりと左右に分かれました。

海田市からは住宅地を走り、
矢野駅を過ぎ、坂駅に到着しました。
坂では、広島行の下り列車と交換しました。

坂を出ると平地がなくなり、呉線は初めて瀬戸内海に
沿って走り、瀬戸内海を眺める事になります。

坂の次の小屋浦では、再び下り列車と交換します。
列車交換の為、しばらく停車するので、
停車中の列車を撮影していました。

上右の写真は、対向の下り列車です。
塗装は異なりますが、下り列車も115系です。
今はこの115系も全廃され、新しい形式の電車が走っています。
小屋浦を発車すると、瀬戸内海を眺めながら走りました。

この先、呉ポートピア駅に停車しました。

以前、呉ポートピアランドという遊園地が開園しており、
呉ポートピア駅はその最寄り駅として1992年3月に開業しています。
呉ポートピアランドは開園後、わずか6年で破綻しますが、
呉ポートピアパークとして市民に公開されています。
次の天応駅でも下り列車と交換しました。

天応からも瀬戸内海の海岸線を走りました。
目の前の島は、江田島です。

1999年に開業したかるが浜駅を過ぎ、
トンネルを抜けると吉浦駅です。

吉浦からは呉の市街地が広がりました。

呉は人口約20万人の都市です。
瀬戸内海に山が迫り、天然の良港だった呉は明治以降は
軍港となり、第二次大戦後は海上自衛隊の拠点になっています。
吉浦から岬を回り込むように走ると、いよいよ呉の中心街に入りました。
呉はかつては製鉄業もありましたが、その中心を担っていた
日新製鋼の呉製鉄所は2023年に閉鎖になってしまいました。
そして、呉駅に到着しました。

呉線の中心駅で、一日の乗降客数は約18,000人程です。
広島から26.4km、快速で32分、普通電車で45分です。
日中、呉線には一時間に2本の快速列車と1本の普通電車が
運行されていますが、毎時1本の普通電車は呉止まりになっています。
呉を発車すると、呉の中心街の東側を南北に
遮る休山をトンネルで抜け、安芸阿賀に到着しました。

この安芸阿賀でも、下り列車と行き違いをしました。
安芸阿賀から広にかけては呉市では
呉の中心街に次ぐ市街地が広がっています。
安芸阿賀を発車し、黒瀬川を渡ります。

新広を出て、広に到着しました。
広島からの電車は広が終点です。
広島を22分前に発車した三原行きが、この広で
25分停車し、乗ってきた電車を待ち合せます。

三原行きの電車は、主に可部線で運用されていた105系です。
この電車は2019年に廃車になっています。
現在のダイヤでは、毎時2本の広島方面からの
快速電車は、この広が終着です。
毎時1本の三原行きは、日中は広が始発で、
ここで乗り換えるダイヤになっています。
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広 - 竹原
(Hiro - Takehara

広で、先行していた三原行の電車に乗り換えて、先を目指しました。
広を過ぎ、トンネルを抜けると、仁方に到着しました。
ここでも、下りの電車と行き違いしました。

この仁方は、愛媛県の堀江とを結ぶ連絡船の最寄り駅でした。
仁堀航路と呼ばれるこの航路は、以前は、岡山県の宇野と
香川県の高松を結ぶ宇高連絡船とともに、鉄道連絡船でした。
宇高連絡船は、関西方面から四国に向かうメインルートで
あった為に利用客も多く、その後に瀬戸大橋線へと発展しています。
仁方航路は、広島と松江を結ぶ航路でしたが、利用客は少なく、
1980年には一日2往復となり、1982年に廃止されました。
仁方を発車すると瀬戸内海を眺めながら走るようになりました。
この日は、曇りがちの日でしたが、波は穏やかでした。

安芸川尻を過ぎると、瀬戸内海から少し離れた所を走りました。

次の安登で下り列車と交換待ちをしました。
下り列車を待つ人の姿も見えています。

安登を発車した後の車窓風景です。
周囲には田畑と集落が混在する景色でした。
前日の大雨の影響で、安登からは徐行運転になりました。

安登の次の停車駅は、安浦です。

安浦は平安時代末期に平清盛や西行の謂れがある土地のようです。
安浦からは再び瀬戸内海に沿って走るようになります。

しばらく瀬戸内海を眺めながら走り、
次の風早過ぎ、安芸津に停車しました。

安芸津を出ると、瀬戸内海から離れて走ります。
徐行区間が終わり、通常の速度で走ります。
田園風景と集落が混在する景色が続きます。

車内は広を発車した時よりもかなり空いています。

周囲の景色ものどかな畑の景色が広がるようになりました。

広から34.9kmの距離を57分かけて走り、竹原に着きました。
途中区間での徐行運転の為、20分程遅れて到着しました。

竹原は人口約2万人の街で、
呉線沿線では呉に次ぐ規模の都市です。

竹原駅の駅舎です。
竹原には古い町並みも残っており、
ここで途中下車しました。
竹原の散策記はこちらです。
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竹原 - 三原
(Takehara - Mihara

竹原の古い町並みの散策を終え、竹原駅に戻りました。
11:09の三原行が前日の大雨の影響で40分程遅れて到着しました。

広から竹原までの列車が遅れたので、竹原の街の散策中に、
駅に電話し、この列車の遅れの状況を確認していました。
そんな竹原駅ですが、2025年6月に無人駅になっています。
竹原を発車し、次の大乗で下り列車と行き違いをしました。

大乗を発車し、しばらく走ると、
火力発電所のすぐ近くを走りました。

このすぐ先が安芸長浜で、安芸長浜を出ると
瀬戸内海を眺めるようになります。

瀬戸内海を眺めながらしばらく走ると、忠海に着きました。

忠海
(ただのうみ)の駅名は、平清盛の父、平忠盛(たいらのただもり)が、忠海駅を発車してしばらく走ると、瀬戸内海が見えてきました。

並走する道路もなく、まさに海を間近に眺めながら走りました。
日本各地に海岸沿いを走る路線がありますが、呉線の
この区間程、道路や電柱、草木などの障害物がなく、
長い間海を眺められる区間は珍しいと思います。

車窓から眺める瀬戸内海は波も静かで
島々の様子も綺麗な景色でした。
上の写真
(上左写真の右側、上右写真の左側)の島は大久野島です。
長らく平和が続いた日本ですが、2度と、日本が
戦争に突き進むことが無いようにと切に願います。
しばらく海岸沿いを走った後、
安芸幸崎に到着しました。

安芸幸崎駅のすぐ先には、造船所の
巨大なクレーンが見えていました。

造船所を過ぎると、瀬戸内海を望むようになりました。

民家の屋根越しに眺めていた瀬戸内海を
再び、間近に眺めるようになりました。

但し、この区間では線路と瀬戸内海の間に
国道185号が走っています。
海水浴場の砂浜や、再び造船所の
クレーンを眺めながら走りました。

この後、須波に停車し、終点の三原に向け走りました。
再度、日本海を眺めながら走りました。

やがて呉線の電車は海岸線に沿って左に大きく
カーブを切り、三原の街並みを眺めるようになりました。
三原市を南北に流れる沼田川を渡り、
高架となり三原市の中心街に入りました。

呉線の線路は、山陽本線に合流しました。
山陽本線の高架橋の北には山陽新幹線の高架橋があります。

竹原からの電車は40分ほど遅れて三原駅に到着しました。
三原駅は、戦国時代の三原城の本丸に造られています。
三原城には2006年12月に訪れています。
三原城の登城記はこちらです。

海田市から87.0kmの呉線は、以前乗車した際には、
夜行列車で通過してしまったと記憶しています。
今回、乗車してみて、期待以上に瀬戸内海の
眺めを楽しめる風光明媚な路線でした、
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