竹原は、広島県の南中部に位置する街です。
古くから瀬戸内海の交通の要衝として栄えたようで、
竹原には江戸時代の町並みが今でもよく残り、
2012年7月に呉線に乗車した際に、竹原で
竹原の古い町並みは、竹原駅から北に800m程の所に位置しています。
この日は、朝から梅雨空の広がる天気で、
鳥羽町通から本町通へと向かいます。
江戸時代の建物かなと思っていましたが、塩田経営者の
この旧笠井邸で左に折れると本町通です。
すぐ右手に入る小路があります。
この小路沿いには古い町並みは続いていませんが、
地蔵堂は、ここから少し離れた西方寺に属しているそうです。
この先の丘陵の中腹に長生寺があります。
河野氏は、平安後期あたりから伊予で勢力を
その後、家督争いが続いたこともあり、河野氏の勢力が衰え、
小高い山の中腹にある長生寺の境内を更に上り、
この山の中腹には、唐崎常陸之介のお墓がありました。
長生寺から本町通に戻りました。
竹原の古い町並みは細い路が入り組んでいますが、
歩き出してすぐのところに洋風の瀟洒な建物がありました。
想像するに大正期に建てられた建物でしょうか。
このすぐ右手に、竹鶴酒造があります。
元々は製塩業を営んでいましたが、
ここを訪れて2年後に、NHKの朝の連続ドラマで
店内も開放されていて、日本酒が綺麗に陳列されていました。
竹鶴酒造の北西20m程の所には旧松阪邸があります。
古い建物が並ぶこの界隈でも、特に重厚な建物でした。
この旧松坂家も、製塩業の他、薪問屋、
邸内や中庭の様子も格式があり京都のお屋敷のような佇まいです。
旧松阪邸を出てから、更に北西に進みます。
上の写真は板屋小路との交差点の様子です。
旧松阪邸から50m程、本町通を歩くと、
この小路も趣のある路でした。
西方寺のある場所には、元々妙法寺というお寺があり、
西方寺には縣造りの普明閣があります。
この普明閣には、平重盛の持念仏であった
縣造りの普明閣からは、竹原の街並みが一望出来ました。
西方寺から本町通に戻りました。
この建物は竹原で初めての郵便局だった建物で、
本町通を北西に進むと、
上左の写真が、大小路の様子です。
本町通を更に進むと瀟洒な洋館が見えてきました。
1929年(昭和4年)に竹原町立の
手前の塀の内側は憧憬の広場として公開されています。
この辺りまで来ると、本町通の端が近づいてきました。
本町通の北の端には胡堂というお堂があります。
そして、本町通が尽きた先には照蓮寺があります。
照蓮寺は、室町時代までは定林寺という名の
照蓮寺の本堂です。
本堂の前の銅像は親鸞上人です。
本堂の端に吊るされた楚鐘が印象的でした。
照蓮寺から竹原駅に戻る途中、本町通から大小路に入りました。
上左の写真は、本町通と大小路との角の屋敷で、
上右の写真は、その奥にある復古館頼家住宅です。
これらの建物は国の重要文化財に指定されています。
復古館から大小路を突き抜け、少し北に行くと、
この建物は、復古館の離れ座敷として建てられ、
旧光本邸からは小路を歩いていきました。
竹原
Takehara, Hiroshima
瀬戸内海に面していて、三原と呉の間に位置しています。
安芸と備後の国境は三原市の西にあるようですので、
竹原は旧国名は安芸になります。
室町時代には港町として知られ、江戸時代に
入ると製塩業で栄えたそうです。
安芸の小京都と呼ばれています。
途中下車し、竹原の町並みを散策しました。
その時の様子を紹介します。
(Takehara Station to Former MATSUSAKA Residence)
July 10, '25
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竹原駅~旧松阪家住宅
(Takehara Station to Former MATSUSAKA Residence)
駅前から北に向かい、本川を渡ると古い町並みに入りました。
撮影: 2012年7月
古い町並みもどことなく沈んだ雰囲気でした。
上の写真の行き止まりのすぐ手前が旧笠井邸です。
撮影: 2012年7月
家として1872年(明治5年)に建てられています。
本町通に入った眺めた様子が下の写真です。
撮影: 2012年7月
古い町並みは、本町通沿いに続いていますが、
その前に、左手の小路に入ってみましょう。
地蔵堂が建っていました。
撮影: 2012年7月
1610年(慶長15年)に大火で焼失し、その後再建されたそうです。
長生寺は、伊予河野氏の57代目・河野通直を
弔うために、小早川隆景が建立したお寺です。
撮影: 2012年7月
伸ばした豪族で、一時期は瀬戸内海の制海権を
有し、河野水軍と称せられていました。
本拠地は、松山市内の湯築城です。
秀吉の四国征伐の際に、河野通直は小早川隆景に
庇護され、伊予からこの竹原に移ったそうです。
境内越しに竹原の街並みを眺めました。
撮影: 2012年7月
唐崎氏は代々、竹原駅に近い磯宮の宮司だったそうです。
唐崎常陸之介士愛
撮影: 2012年7月
狭い通りの両側に古い建物が400m程、並んでいます。
撮影: 2012年7月
この街並みは1718年(享保3年)の絵図に描かれている
町並みと全く一緒のようです。
撮影: 2012年7月
今は、カフェになっているようです。
時間に余裕があれば、古い町並みのカフェで
ゆったりとした時間を過ごしたいと思います。
撮影: 2012年7月
1733年(享保18年)に酒造業を始めたそうです。
ニッカウヰスキーの創始者・竹鶴正孝の生家でもあります。
取り上げられたので、興味深く観ていました。
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撮影: 2012年7月
近年、全国新酒鑑評会で何度も金賞を受賞しているようです。
撮影: 2012年7月
入母屋造り、平入の建物が通りに面し、その奥に
もう一棟の建物が並んでいます。
廻船業、醸造業と多角経営をしていようです。
製塩業で財を成した商人が多く、当時、竹原の
製塩業が如何に発達していたかを物語っています。
撮影: 2012年7月
当時の松阪家の財力と、竹原の文化の高さを示していると思います。
旧松阪家住宅~照蓮寺
(Former MATSUSAKA Residence to Shorenji Temple)
旧松阪邸から先も、古い町並みの景色が続きます。
撮影: 2012年7月
上左が板屋小路、上右が本町通の様子です。
右手にお寺への階段が見えてきました。
撮影: 2012年7月
階段を上った先のお寺は西方寺です。
そのお寺が1602年(慶長7年)に火災に遭ってしまいました。
翌年、妙法寺跡に西方寺が移ってきたそうです。
寺の案内板には小早川隆景が京都の
清水寺を模して建立したと書かれていました。
撮影: 2012年7月
木造の十一面観音立像が収められていたようです。
現在は別のお堂に移され年に一度ご開帳されるそうです。
撮影: 2012年7月
黒い瓦屋根の家々が遠くまで続いていました。
西方寺への小路との角にも、古い建物が建っています。
撮影: 2012年7月
1871年(明治4年)に建てられました。
大小路との交差点がありました。
撮影: 2012年7月
この建物は竹原市歴史民俗資料館です。
撮影: 2012年7月
書院図書館として建てられています。
調べてみると、ここでロウソクを灯して竹原の古い街並みを
ライトアップするイベントに使われているようです。
2015年に、この広場に竹鶴正孝、リサ夫婦の
銅像が建てられました。
歴史民俗資料館から60m程の所に頼惟清旧宅がありました。
頼惟清は、幕末に歴史家、思想家として活躍した頼山陽の祖父です。
撮影: 2012年7月
照蓮寺の堂々とした山門です。
撮影: 2012年7月
お寺で小早川家と所縁があったようです。
撮影: 2012年7月
定林寺時代は禅寺だったようですが、
今は浄土真宗のお寺です。
撮影: 2012年7月
大小路では、本町通との角から、頼家の屋敷が続きます。
撮影: 2012年7月
頼山陽の叔父、頼春風の家です。
江戸中期に建てられましたが、江戸後期に火災に遭い、
現在の建物は、1854年(安政元年)に再建されています。
頼春風の孫、頼三郎が分家の際に建てた建物です。
1859年(安政6年)に建てられ、酒造業が営まれたそうです。
白壁の蔵造りの建物がありました。
撮影: 2012年7月
その後、光本氏の邸宅として使われていたようです。
現在は、陶芸家・今井政之氏の陶芸の館になっています。
旧光本邸のある中ノ小路から阿波屋小路に入りました。
阿波屋小路に沿っても古い建物が残っています。