北鎌倉の駅の近くには、鎌倉五山の
北鎌倉駅から少しばかり歩くと、
円覚寺は鎌倉の街を取り囲む丘陵地の中腹にあります。
北条時宗の父、北条時頼は建長寺を建立していますが、
石段を登ると総門がありました。
総門から、再び石段を登ると三門に至ります。
いまの三門は1785年(天明5年)に再建されたものです。
堂々とした三門を抜けると、参道が続き、
上左の写真は松嶺院の門、右が選仏場です。
その奥には居士林がありました。
元々は東京牛込にあった柳生流の剣道場だったそうですが、
この右手に大きなお堂が聳えていました。
円覚寺仏殿です。
仏殿の仏さまは、円覚寺の御本尊、宝冠釈迦如来です。
仏殿を訪れた後、南側にある高台に向かいました。
石段を登ると視界が開けていました。
この高台には弁天堂があります。
執権・北条貞時
弁天堂の横にはその洪鐘が吊るされた鐘楼があります。
鐘楼に架かる洪鐘は、1301年(正安3年)に鎌倉幕府の
鎌倉は歴史ある街ですが。鎌倉幕府の建物は
高台の弁天堂から仏殿に戻り、
方丈の前には立派な唐門がありました。
唐門を過ぎた左手には百観音があり、
百観音は江戸時代に造られた石仏で、荒廃していたものを
方丈の裏手には妙香池がありました。
岩肌が露出した庭園は深山幽谷の
方生池に沿って緩やかな坂道を上ると、
この石垣を左に折れると舎利殿です。
上左の写真の門の奥に舎利殿があります。
舎利殿は国宝に指定されていますが、
先ほどの石垣の所まで戻り、今度は右手の急な石段を上りました。
残念ながら如意庵も非公開です。
如意庵は、お堂の前には綺麗な花が咲き、
石段を下り、先ほどの石垣から坂道を上って佛日庵に向かいます。
開基廟は、円覚寺を創建した執権・北条時宗、その子・貞時、
北条時宗は円覚寺を建立した2年後に亡くなっているそうです。
方丈から奥の境内は、大きな伽藍の京都五山のお寺に
開山廟の奥にも石段があり、その石段を上ると、
黄梅院は北条時宗公夫人の覚山尼が、時宗公の
黄梅院は、落ち着いた庭がとても好ましい佇まいでした。
そして、帰り際に、古びた小さな門の向こうに、
もう随分前に行ったので、
円覚寺から南東に向かい、建長寺に
明月院は、平安末期に創建された明月庵が始まりだそうです。
13世紀の半ばの文永年間に、8代執権の北条時宗が
1380(康暦2)年に鎌倉公方の足利氏満の命で、
禅興寺は、明治の初めに廃寺になり、
明月院の入口に建つ総門です。
総門の左手の小さな橋に兎と亀の置物がありました。
この先で拝観料を払い、明月院に入ります。
この左手に、鎌倉幕府第五代執権・北条時頼の
北条時頼は1256年(寛元4年)から1256年
就任当初は、幕府中枢の評定衆の信任を得られず
北条時頼のお墓から月笑軒の門の前まで戻り、
桂橋の先には石段が続いていました。
訪れたのは10月でしたが、6月頃にはここには
石段の先の中門です。
中門を抜けると、本堂がありました。
この本堂には「悟りの窓」があります。
この丸窓の向こうの庭園が見えています。
「悟りの窓」から眺める庭園は普段は非公開ですが、
本堂の向かいには枯山水の庭園がありました。
この庭園は、心落ち着く佇まいで、
本堂から左手に進みます。
1380年頃に建立されたお堂を開山堂として
開山堂の奥に明月院やぐらという洞窟がありました。
このやぐらは元々、1160年(永歴元年)に平治の乱で
その約220年後に関東管領・上杉憲方が
鶴岡八幡宮は、源頼義が1063年(康平6年)に、
1180年(治承4年)に、平氏打倒の挙兵をし、
鎌倉幕府が成立すると、鶴岡八幡宮は
鶴岡八幡宮の一の鳥居は本宮から2km近くも
一の鳥居は鎌倉駅からも少し離れているので、
二の鳥居は、鶴岡八幡宮からほぼ南に一直線に
二の鳥居の奥には、若宮大路の真ん中に
この段葛は北条政子の安産を祈願して造られた参道です。
段葛が途切れると、大きな三の鳥居が現れました。
ここからはいよいよ鶴岡八幡宮の境内です。
源平池に架かるこの太鼓橋は当時は朱色に
太鼓橋は、神様の通り道として
太鼓橋から続く参道を歩いていくと
舞殿では、源頼朝の求めに応じて、義経の
2014年9月に訪れた際には、この舞殿で
舞殿の右手奥には下宮(若宮)の
このように、上宮と下宮(若宮)の2箇所に神殿が
舞殿から回り込んで、上宮へと至る
1219年(建保7年)1月27日、鎌倉幕府第三代将軍・源実朝は、
この日本史上の大事件を目撃していた大公孫樹ですが、
大公孫樹も無くなり、大勢の観光客が大石段を
大石段を上ると上宮です。
上宮は、応神天皇らを祀る鶴岡八幡宮の本殿です。
この上宮からは、舞殿の屋根越しに
上宮の社殿の右手には武内社が建っていました。
この武内社の右隣には、神輿を収納した朱塗りの
本殿を参拝した後に、大石段をくだり、
この一角は木々が生い茂り
この由比若宮遥拝所を過ぎると
朱塗りの上宮の社殿に比べると
源頼朝公と実朝公が祀られていて、源氏の
白旗神社から南に進むと、建物の傍らに
"山はさけ うみはあせなむ 世なりとも
源実朝は、金槐和歌集でも知られる
そして、その先に源氏池が見えてきました。
この源氏池には3つの島が浮かんでします。
厳かな雰囲気の漂う社でしたが、
旗上弁財天の所縁は、源頼朝の旗挙げの際に
2015年1月に鶴岡八幡宮を訪れた際、
冬の源氏池は蓮が枯れ、弁財天の旗幟が
源頼朝所縁の鶴岡八幡宮には、鎌倉幕府の
ちなみに、2014年9月に訪れた際、滅多にしない事ですが、
淡雪の 降れどたまらぬ 梅が枝に
意味は、『本分を知り、困苦に耐えて清節を守り通しなさい。
当時、将来への不安が強くあり、その中で
江ノ島電鉄を長谷で下車し、
高徳院という名前はそれ程知られていませんが
境内を入ると仁王門が見えてきました。
この仁王門には高徳院の山号
仁王門を抜け、拝願料を払って境内に入ると
大仏が最初に造られたのは1244年(寛元2年)で、
1247年(宝治元年)にその仏像が大風で倒れ、
当初は、奈良の大仏のように大仏殿も建てられ
大仏様には、後ろ側から
内部からは、鎌倉の大仏が幾つものパーツから
後世に多くの修復を受けた東大寺の大仏とは異なり、
その為、国宝に指定されています。
また、この地では、鎌倉幕府の末期に北条高時の
2012年10月、高徳院の鎌倉大仏を訪れた後、
観光客で賑わう、高徳院から長谷駅に向かう
ここはひっそりとした佇まいでした。
この先で、御霊神社の鳥居が見えてきましたが、
その先に、江ノ島電鉄の踏切がありました。
この踏切のすぐ脇に、御霊神社の鳥居があります。
当初は、鎌倉周辺の、大庭氏、梶原氏、長尾氏、
鳥居を抜け、社殿に向かって右手に大きなタブノキがありました。
この奥にたたずむ御霊神社の社殿です。
御霊神社から更に南に進み、極楽寺を目指しました。
このお店が御霊神社の参道の入口にあたります。
西に歩き出してすぐに、星の井がありました。
星の井の奥には虚空蔵堂へと続く石段があります。
星の井を過ぎると道は上り坂となり、
鎌倉は、周囲を山に囲われていて、それを
稲村ケ崎へと続く丘陵地は思いの他に
1333年(元弘3年)、鎌倉幕府が滅亡した際には、
極楽寺坂切通を抜けると、江ノ島電鉄の
江ノ島電鉄は極楽寺切通をトンネルで抜け、
桜橋を渡ると、駅名になっている極楽寺がありました。
極楽寺は1259年(正元元年)に執権・北条義時の
2012年4月に、三浦半島の油壷や三崎を訪れた後、
逗子の住吉城址の丘陵地の西側が鎌倉です。
砂利の海岸線が珍しいと思った記憶があります。
自然の地形と思えるのですが、この"島"が
和賀江嶋の碑です。
鎌倉幕府開府後に、相模湾の船の交通量が増加し、
現代では、由比ヶ浜には多くのウィンドウサーフィンを楽しむ
鎌倉
Kamakura, Japan
鎌倉はいわずと知れた、源頼朝の鎌倉幕府開設以来、
坂東武士団の拠点になったところです。
そして、京都・奈良に続く歴史の街です。
周囲を山に囲まれ西に開けた狭い土地に街が開けています。
この天然の要害の地で拠点を構えた頼朝は、
遠く、京都の朝廷との戦いを想定していたのでしょうか。
この鎌倉にはあまり縁がなく、
修学旅行を含めて、4度ほどです。
2001年の暮れ、江ノ島電鉄に乗った際、
稲村ヶ崎のあたりと、北鎌倉を少しばかり訪れ、
その後、2008年8月にも鎌倉を訪れました。
2001年と2008年に訪れた際の様子を紹介しようと思います。
明月院
(Meigetsuin Temple)
June 23, '26
建長寺
(Kencho Ji Temple)
Feb. 03, '10
鶴岡八幡宮
(Turugaoka Hachimangu Shrine)
June 17, '19
源頼朝墓界隈
(The Grave of Minamoto-no Yoritomo)
Feb. 09, '10
荏柄天神社
(Egaraten Shrine)
東勝寺跡
(Toushou Ji Temple)
Feb. 14, '10
海蔵寺
(Kaizoji Temple)
浄光明寺
(Jyokomyoji Temple)
高徳院・鎌倉大仏
("The Great Buddha")
June 07, '19
御霊神社から極楽寺
(from Goryo Shrine to Gokurakuji Temple)
NEW ! June 25, '26
和賀江嶋
(Wakaejima)
June 02, '26
稲村ヶ崎、七里ヶ浜
(Inamuragasaki)
Jan. 27, '10
腰越界隈
(Koshigoe)
Jan. 29, '10
円覚寺
(Enkaku Ji Temple)
第二位の名刹、臨済宗の円覚寺があります。
撮影: 2001年12月
もう円覚寺の境内の入口です。

撮影: 2012年10月
円覚寺は1282年(弘安5年)、時の執権・北条時宗
官製の寺という位置づけの建長寺に対し、円覚寺は
北条氏の菩提寺という位置づけだったようです。

撮影: 2012年10月

撮影: 2012年10月
写真にははっきりと写っていませんが、扁額は
伏見上皇
その両側に色々な伽藍が並んでいます。

撮影: 2012年10月
選仏場は修行僧の坐禅道場の事だそうです。
居士林は、在家の全の修行者の為の道場です。

撮影: 2012年10月
1928年(昭和3年)にこの場所に移築されたそうです。

撮影: 2012年10月
以前の仏殿は1923年(大正12年)の関東大震災で
倒壊し、1964年(昭和39年)に再建されています。
仏殿の天井には、見事な白龍の絵が描かれていました。

撮影: 2012年10月
鳥居をくぐり、その奥の長い石段を登っていきます。

撮影: 2012年10月
西側の東慶寺の境内が手に取るように見えています。
良く晴れていれば富士山も眺められるそうです。

撮影: 2012年10月
天下泰平祈願の洪鐘を鋳造する事を思い立った
ようで、その所縁として建てられたそうです。

撮影: 2012年10月
第九代執権・北条貞時が国家安泰を願って
鋳造したもので、国宝に指定されています。

撮影: 2012年10月
戦火で焼かれ、古い建物は殆ど残っていません。
鎌倉に有る国宝は15ですが、絵画や彫刻などの
美術品を除くと僅か4つしかありません。
再び円覚寺の奥へと進みました。
仏殿の背後には方丈があります。

撮影: 2012年10月
正面に方丈が建っています。

撮影: 2012年10月
明治になり、今の場所に移動させたもののようです。
円覚寺創建時からの方生池で、平成になり
江戸時代の絵図に基づいて復元されたそうです。

撮影: 2012年10月
雰囲気を醸し出しています。
目の前に佛日庵の立派な石垣が見えてきました。

撮影: 2012年10月
舎利殿には源実朝公が、層の能仁寺から
請い受けたお釈迦様の歯が祀られています。

撮影: 2012年10月
舎利殿は室町時代前期に建てられた大平寺の
仏殿を、室町時代後期の天正時代に移築したそうです。
生憎立ち入り禁止になっていました。
石段の先には如意庵がありました。

撮影: 2012年10月
臨済宗のお寺は、修行の場所という事で
非公開になっているお寺や塔頭が多くあります。
とても落ち着いた雰囲気でした。
佛日庵の隣には開基廟がありました。

撮影: 2012年10月
そして貞時の子で、北条最後の執権・北条高時

撮影: 2012年10月
茅葺の開山廟は江戸時代の1811年(文化8年)に改築されています。
比べると、こじんまりとした感じがしました。
円覚寺で最も奥に位置する黄梅院に至ります。

撮影: 2012年10月
菩提の為に建立した華厳塔のあった地に、1354年に
方外宏遠が、師・夢窓国師の塔所として建立した塔頭です。

撮影: 2012年10月
黄色く色ついた銀杏の葉が輝いていました。
撮影: 2001年12月
記憶が定かではないのですが、
確か、これが総門だと思います。
明月院
(Meigetsuin)
向かう途中に明月院があります。

撮影: 2012年10月
父・北条時頼の建立した最明寺跡に禅興寺を創建しました。
関東管領・上杉憲方が禅興寺を中興し、
寺院を拡大し、塔頭も立てたそうです。
この時、明月庵は明月院と名前を変え、
禅興寺の塔頭になったと思われます。
塔頭の明月院が残りました。

撮影: 2012年10月

撮影: 2012年10月
左手に向かうと御茶所の月笑軒の門が見えていました。

撮影: 2012年10月
廟所があり、その奥にお墓がありました。

撮影: 2012年10月
(康元元年)にかけて執権を務めていました。
反北条の名越光時が、前将軍・藤原頼経を擁して
戦を準備していたそうですが、これを鎮圧し、
権力を掌握していったようです。
その先の桂橋を渡って、本堂を目指しました。

撮影: 2012年10月

撮影: 2012年10月
紫陽花の花が咲き、多くの観光客が訪れるそうです。

撮影: 2012年10月

撮影: 2012年10月
本堂の外からも眺められる部屋にありました。

撮影: 2012年10月
この光景は本当に、衝撃的ともいえる景色でした。
今でもこの光景を見た時の驚きと印象の深さが蘇ってきます。
ハナショウブ開花期と紅葉期は公開されています。

撮影: 2012年10月
「悟りの窓」の光景とは対照的でした。
その奥に、開山堂がありました。

撮影: 2012年10月
明月院、最明寺、禅興寺の歴代住職の
位牌が祀られているそうです。
鎌倉ではこうした洞窟を「やぐら」といいます。

撮影: 2012年10月
京都で戦死したこの地の豪族・山ノ内俊道の供養の
為にその子・山ノ内経俊が造ったと言われています。
生前に墓塔を造り、ここに安置したそうです。
東慶寺
(Tokei-Ji Temple)
円覚寺を出て次に東慶寺に向かいました。
東慶寺は、鎌倉尼五山にも名を連ね、
また「縁切り寺」としても有名な尼寺です。
正式名称は「松岡山東慶総持禅寺」といい、
1285年の創建とのことです。
東慶寺は、狭い谷を隔てて、円覚寺と
反対側の山の斜面にひっそりと佇んでいます。
JR横須賀線の踏切を渡ると、
東慶寺はすぐそこです。
円覚寺のそれと比べると、
小ぶりな階段を上ります。
江戸時代の封建的な社会では、武家の妻からの
離婚請求は認められず、この東慶寺と群馬の満徳寺でのみ、
3年間の修行を行えば離婚が認められたそうです。
辛い思いを胸に、多くの女性がこの階段を上ったのでしょうか。
東慶寺の境内は、梅や紫陽花、菖蒲の花で
知られているようですが、真冬のこの時期、
境内はひっそりとしていました。
境内の木々や、白壁の建物を見ていると
どこか遠くの山里に入り込んだような錯覚に陥りました。
建長寺
(Kencho Ji Temple)
建長寺は、1253年(建長7年)に時の執権、
北条時頼の発願により創建された大寺です。
中国の僧・大覚禅師が開山した臨済宗のお寺です。
1386年(至徳3年)に足利義満が制定した
鎌倉五山で、第一の寺とされています。
北鎌倉駅から江ノ電バスに乗って
建長寺のバス停で下車し、
総門に向かいました。
総門は、1783年(天明3年)に築かれた
京都の般舟三昧院の門を1940年(昭和15年)に
移築したものだそうです。
門には「巨福山」という建長寺の山号が
額に掲げられていました。
総門をくぐったところで、入場料を払い
よく整備された参道を歩いていくと
見上げるような三門が見えてきます。
建長寺の周囲は深い森に囲まれ
その中に大きな三門が聳えていました。
高さは約30メートル程もある楼門で、
今の三門は1775年(安永4年)に
再建されたものだそうです。
楼上には五百羅漢が像が安置されているそうです。
後深草天皇直筆と伝わる「建長興国禅寺」の額が
門を通る参拝客を見下ろしています。
「建長興国禅寺」は建長寺の正式名称です。
門の向こうには仏殿が見えています。
このまま真っ直ぐに仏殿に進みたくなりますが
その前に三門の右手の鐘楼に立ち寄りました。
この梵鐘は1255年(建長7年)に大和権守物部重光が鋳造し
大覚禅師による「建長禅寺」の銘文が印されているそうです。
梵鐘の高さは207.7cm、口径125pで、
重量は2.7tにもなるそうです。
三門を抜け、仏殿へと向かいました。
地蔵菩薩を安置し、法要を行うお堂です。
1647年(正保4年)に東京・芝の増上寺から
徳川第二代将軍、秀忠公夫人、小督の方
(崇源院)の霊屋を移築したものだそうです。
東京・芝の増上寺の様子はこちらです。
それにしても大きな建物で、
これが将軍の正室の霊屋だったというと、
徳川創設期の将軍家の御威光の凄さが判ります。
仏殿のすぐ奥には法堂が建っています。
法堂の軒先の向こうの森から
煙がたなびいていました。
その様子が幽玄な感じに見えました。
法堂は住職が説法するためのお堂だそうで、
この建長寺の法堂は1814年(文化11年)に
再建されたものだそうです。
法堂から方丈に向かう途中に
振り返って眺めた様子です。
法堂と仏殿が一直線上に並び、
その脇に整然と参道が延びています。
さすがに鎌倉五山一の大寺
という雰囲気が漂っています。
そしてこちらが法堂の奥にある方丈です。
1732年(享保17年)に建てられ、
総門と同じく京都・般舟三昧院から
1940年(昭和15年)に移築されたそうです。
方丈の手前には、屋根が優雅に
曲線を描く唐門が建っています。
この唐門は仏殿と同じ、東京・芝の増上寺から
1647年(正保4年)に移築されたものだそうです。
こうしてみると、建長寺には多くの
立派な伽藍が建ち並んでいますが、
その多くが移築されたもので、室町時代の14世紀や
15世紀には大火で多くの建物が焼失してしまったそうです。
江戸時代初期には寺勢も衰えていたのでしょうか。
方丈の裏には、大覚禅師作と
伝わる庭園がありました。
中央に池を配し、池の周囲の芝がとても綺麗でした。
雰囲気もとても落ち着いた名園だと思いました。
建長寺は周囲の山々にも、半僧坊や
西来庵といったお堂が点在しているようです。
鶴岡八幡宮
(Turugaoka Hachimangu Shrine)

撮影: 2015年1月
前九年の役での奥州平定を終えて鎌倉に帰った際、
戦勝祈願をした京都の石清水八幡宮を
由比ヶ浜に勧請したのが始まりだそうです。
鎌倉入りした源頼朝が、鶴岡八幡宮を
現在の地に遷移したそうです。
関東武家の崇敬を集めました。
離れた、鎌倉駅の南側にあります。
鎌倉駅から程近い二の鳥居から参拝を始めました。
撮影: 2008年8月
伸びる若宮大路に建てられ、鳥居の前には、
沖縄のシーサーの様な狛犬が控えていました。
段葛と呼ばれる、一段高い参道が続いています。
撮影: 2008年8月
参道の両脇には桜と躑躅が植えられていました。
春には花のトンネルが綺麗な事でしょう。
撮影: 2008年8月
三の鳥居をくぐった所にある太鼓橋です。

撮影: 2015年1月
塗られ、「赤橋」と呼ばれていたそうです。
通行禁止になっていました。
舞殿や上宮の神殿が見えています。

撮影: 2015年1月
多くの参拝客と共に参道を歩き、流鏑馬の
馬場を横切り、舞殿に辿り着きました。

撮影: 2015年1月
愛妾・静御前が舞を舞ったと伝えられています。
結婚式が行われていました。

撮影: 2014年9月
社殿も見えています。
撮影: 2008年8月
建てられたのは1191年(建久2年)の事だったそうです。
鎌倉幕府開府の一年前の事です。
大石段を眺めてみました。

撮影: 2015年1月
大石段の途中、左手には
大きな公孫樹の木がありました。
撮影: 2008年8月
この公孫樹の木に隠れていた二代将軍・頼家の息子・
公暁に暗殺されたと伝わっています。
2010年3月に折からの強風で倒れてしまっています。
何気なく上っているのを見ると、この場所で
将軍暗殺という惨劇が起きたとは、俄には
信じられないのですが、実朝の死で、
源氏の血筋は絶えてしまった事実は
重く残っています。

撮影: 2015年1月
1828年(文政11年)に、徳川家斉によって再建され、
下宮と共に重要文化財に指定されています。
鎌倉の街を一望出来ました。

撮影: 2014年9月
本殿と同じく1828年(文政11年)に再建されています。
撮影: 2008年8月
建物もあり、このあたりは日光東照宮を
連想するような造りでした。
本殿の東側にある白旗神社に向いました。
その途中にある由比若宮遥拝所です。
撮影: 2008年8月
神聖な雰囲気が伝わってきます。
由比若宮は、源頼朝が最初に鶴岡八幡宮を
創建した元宮のあるところです。
白旗神社がありました。

撮影: 2014年9月
ひっそりとした佇まいの社殿です。
旗印から白旗神社と名付けられています。
暗殺された三代将軍・源実朝の歌碑が建っていました。
撮影: 2008年8月
君にふた心 わがあらめやも"
当時一級の歌人だったようです。
鶴岡八幡宮入り口の太鼓橋の右手(東側)に広がる池です。
2014年9月、蓮の葉が池全体を覆い尽くしていました。

撮影: 2014年9月
朱塗りの橋を渡り、最も大きな東の島に向かうと
弁財天の旗幟が並び、小さな境内に
旗上弁財天が祀られていました。
撮影: 2008年8月
1980年(昭和55年)に復元されたそうです。
弁財天が現れ、霊験があったことと、
実朝暗殺に端を発した将軍後継問題により生じた
承久の乱の際には、鎌倉幕府軍はここで
旗挙げをしたことからこの名がついたそうです。
源氏池の南東側では牡丹が咲いていました。

撮影: 2015年1月
遠くからも良く見えていました。

撮影: 2015年1月
初期の歴史が色濃く刻まれていました。
御神籤をひきました。末吉でしたが、その御神籤に
書かれていた和歌が胸をうちました:
花は香りて 春風ぞ吹く
時には耐え難い程の忍従があるが、すぐ春風をともなって
天与の恵風が訪れ、きっと幸福になる。』というものだそうです。
この御神籤の言葉に出会えたのは
大きな心の支えになりました。
源頼朝墓界隈
(The Grave of Minamoto-no Yoritomo)
源頼朝が幕府を開いた地、鎌倉では、
街中を歩いているとあちこちに碑が建ち、
源氏所縁の地や鎌倉幕府所縁の
史跡が点在しています。
鶴岡八幡宮を訪れた折り、近くにあった
源頼朝のお墓に行ってみましたが
その際に、見かけた旧跡の様子も
合わせて紹介しようと思います。

畠山重忠邸跡
畠山重忠は、鎌倉時代初期の有力御家人の一人です。
源頼朝が挙兵した際には、平氏側に付いていたそうですが、
頼朝が安房から武蔵に入った際に、源氏方に付いたそうです。
その後、源義仲追討の戦や一の谷の戦いで武功を挙げ、
有力御家人として、頼朝に認められたようです。
鶴岡八幡宮から東に向かって境内を出ると
すぐに畠山重忠の屋敷跡の碑がありました。
畠山重忠の屋敷がどこにあったのかは
実際のところは確定していないようですが、
これほど鶴岡八幡宮の近くに屋敷があったとなると、
畠山重忠は重職に就いていた事がわかります。
畠山重忠は、今の埼玉県比企郡嵐山町にも
屋敷を持っていたそうです。
畠山重忠の居城、
菅谷館の様子はこちらです。
謹直な性格で、人望も厚かった畠山重忠ですが、
1205年((元久2年)に時の執権・北条時政に
謀殺されてしまいました。
源頼朝が急死した1199年(正治元)以降、
北条氏が有力御家人を次々と謀殺していく
暗く陰湿な時代が続いたのでした。
所在地: 鎌倉市雪ノ下3-2-19
大蔵幕府跡
その昔、社会科の授業では、源頼朝が
1192年(建久3年)に征夷大将軍に任ぜられ
鎌倉幕府が成立したと教えられました。
しかし現在では、鎌倉幕府は頼朝の私的な
権力体制が段階的に整えられたという
見解になっているようで、どの段階で
鎌倉幕府が成立したかには諸説あるそうです。
1180年(治承4年)伊豆で挙兵した頼朝は
一旦、石橋山の戦いで敗れたものの安房に渡り兵を整え、
その年の10月に鎌倉に居を構えます。
頼朝が流されていた、
蛭ヶ小島の様子はこちらです。
この頼朝の館が大蔵幕府と呼ばれています。
この大蔵幕府は現在の清泉小学校にあったそうです。
畠山重忠の屋敷跡から、
いくつか角を曲がりながら東に向かい
清泉小学校の南西角に碑がありました。
頼朝はこの場所で政治を開始しています。
最も早い説ではこの1180年(治承4年)を
鎌倉幕府の成立年としているそうです。
その後、源頼家、実朝もここで政治を執り行い、
北条政子が亡くなった1225年(元仁2年)まで
ここが幕府の中心でした。
所在地: 鎌倉市雪ノ下3丁目11-45
白旗神社
大蔵幕府跡から北に向かい、
小高い丘の麓に白旗神社がありました。
白旗は、もちろん源氏の旗印です。
この地は大蔵幕府(源頼朝公居館)の北隅にあたり
持仏堂があったところだそうです。
持仏堂には、頼朝が石橋山の戦いの際に
髻(もとどり)の中に納めていたという
小さな観音像が祀られていたそうです。
1199年(正治元年)に頼朝が亡くなると
ここに葬られたそうです。
頼朝の一周忌以降、持仏堂は
法華堂と呼ばれたようです。
所在地: 鎌倉市西御門2-1
源頼朝墓
白旗神社の奥に続く、
急な石段を上っていくと
源頼朝のお墓がありました。
ここに来るまでに、
建長寺や鶴岡八幡宮を巡り、
かなり歩いていたので、
この石段はちょっと堪えました。
この石段を登ったところに
源頼朝のお墓がありました。
多くの観光客で賑わう
鶴岡八幡宮とは対照的に、
頼朝の墓は、ひっそりとしていました。
お墓も質素なもので、平家を倒し、
源氏の武家政権を開いた人のお墓とは
信じられませんでした。
西御門跡
頼朝の墓を訪れた後に鶴岡八幡宮に戻る際、
西に向かって行くと、西御門跡の碑を見つけました。
この辺りに大蔵幕府の西門が位置していたようです。
周囲は住宅が立ち並んでいて、碑がなければ
この周囲に鎌倉幕府があったとは
思えない光景です。
市街化が早くから進んでしまったので、
いまさら鎌倉幕府発祥の地を
史跡化するのは難しい事でしょう。
所在地: 鎌倉市西御門2-1-11
若宮大路幕府跡
若宮大路幕府跡は、鶴岡八幡宮の
南側に立ち並ぶ住宅地になっています。
細い路地の角に若宮大路幕府跡の碑がありました。
北条政子の死後、鎌倉幕府の政務所は
大蔵幕府から宇津宮辻に移されたのですが、
その11年後の1236年(嘉禎2年)に、
この地に移されています。
これから約100年後の1333年(元弘3年/正慶2年)に
鎌倉幕府の歴史は幕を閉じるのでした。
所在地: 鎌倉市雪ノ下1-11-22
青砥藤綱旧蹟
若宮大路幕府跡から東勝寺跡に向かう途中に、
鎌倉の市街地の東を流れる滑川を渡ります。
その滑川に架かる橋の袂に
青砥藤綱旧蹟の碑が立っていました。
数々の暗殺や謀殺が起きた鎌倉時代でしたが、
北条時宗が執権に就いた時期は、
暗殺や御家人の謀殺は少なかったようです。
その北条時宗に使えたのが青砥藤綱で、
その人柄による所が大きかったようです。
青砥藤綱についての逸話は数々あるそうですが、
その一つが、この滑川を渡る際、
十文を落としてしまった話です。
彼は、五十文で松明を買い求め、
落とした十文を探したそうです。
その時、青砥藤綱は
「十文のお金を落とす事は天下のお金を無くす事だが、
それを探すために使った五十文は人の役に立っている」
と言ったそうです。
所在地: 鎌倉市小町3-4-1
東勝寺跡
(Toushou Ji Temple)
青砥藤綱旧蹟から滑川を渡り、
更に東に向い東勝寺跡を目指しました。
滑川の西側では密集していた住宅も
鎌倉の東側を取り囲む山に近く、
このあたりは木々も生い茂り、
区画も広い住宅地になっていました。
細い坂道を上っていくと、
草の生い茂った平地が現れました。
この空き地が国の指定史跡、東勝寺跡です。
東勝寺は鎌倉幕府の三代執権・北条泰時が創建したお寺で、
鎌倉幕府の実権を握っていた、初代執権・北条時政から
繋がる血筋の北条得宗家の菩提寺だったようです。
北条得宗家の強権政治も時代とともに綻びを見せ、
1333年(元弘3年/正慶2年)には
有力御家人の足利尊氏が反旗を翻し、
新田義貞も、上野国で挙兵し、
鎌倉へと攻め込んできました。
北条得宗家として実権を握っていた
北条高時は、この東勝寺に逃げ込み、
ついには自害し、140年程続いた
鎌倉幕府も、ここに潰えてしまいました。
東勝寺跡から更に山に向かって歩くと
祇園山ハイキングコースの階段がありました。
この階段を上り始めた藪の中に
東勝寺旧蹟 の碑が立っていました。
新田義貞軍に追われた北条高時は、
この碑から左に分け入っていった
洞窟の中で自刃したそうです。
北条高時が果てた、鎌倉幕府滅亡の地は、
高時の腹切りやぐらとして残っています。
岩が迫り出した洞窟には
いくつもの卒塔婆が立てかけられ
ちょっと不気味な雰囲気が漂っています。
カメラを向けるのもちょっと怖い思いがしました。
高時の無念が、この辺りには、
まだ残っているようでした。
高徳院・鎌倉大仏
(Koutoku-in Temple, "The Great Buddha")
緩やかな坂道を海と反対方向に
お土産物屋さんの並ぶ道を歩いていくと
しばらくすると高徳院に辿り着きました。

撮影: 2012年10月
鎌倉大仏といえば、有名な観光名所です。

撮影: 2012年10月
「大異山」を記す扁額が掲げられているそうです。
野ざらしの大仏様がその大きな姿を現していました。

撮影: 2012年10月
源頼朝の侍女だった稲多野局の発案で、
浄財を集めて資金を工面したようです。
1252年(建長4年)に現在の青銅の仏像を
造ったそうです。
そこに安置されていたそうですが、
1498年(明応7年)に、湘南海岸を襲った
大津波で、大仏殿は洗い流されたようです。
内部に入る事が出来ました。

撮影: 2012年10月
出来ている事が手に取る様に判りました。
背中には明り取りの窓がつけられ、
首の部分は、穴が開いているようでした。
鎌倉の大仏は、鋳造当時の形や工法が今も良く
残されているそうです。

撮影: 2012年10月
一族870名以上が自刃したと伝わっています。
御霊神社から極楽寺
(From Goryojinjya to Gokurakuji)
南に向かい御霊神社に向かいました。
道から、途中で西に折れ、狭い路地を歩きました。

撮影: 2012年10月
道の途中に御霊小路の石碑もありました。

撮影: 2012年10月
この鳥居は正面の鳥居ではないので、
もう少し真っすぐ進みました。
この踏切の写真は何度か目にしたことがありますし、
電車を背景に写真を撮っている人が居たりしていて、
多分、写真スポットになっていると思います。

撮影: 2012年10月
御霊神社は、平安時代末期に創建されています。

撮影: 2012年10月
村岡氏、鎌倉氏の平氏五家の祖を祀る神社でしたが、
後三年の役で武勇を挙げた鎌倉景政を祀るようになりました。
樹齢約350年、神奈川の名木100選に選ばれています。

撮影: 2012年10月
この社殿は1913年(大正2年)に建てられたものです。

撮影: 2012年10月
江ノ島電鉄の踏切の先に力餅のお店がありました。

撮影: 2012年10月
この先で東西に走る道に出て、西に向かいました。
江戸時代に選定された鎌倉十井の一つです。

撮影: 2012年10月
「南無虚空菩薩」と書かれた旗指物が
階段に並んでいて、印象的でした。
丘陵地を切通で抜けるようになりました。

撮影: 2012年10月
超えるために七つの切通が設けられていました。
その7つの切通は鎌倉七口と呼ばれており、
極楽寺へ向かうこの切通は、そのうちの一つ、
極楽寺坂切通です。
険しく、切通は深く、暗くなっていました。
新田義貞軍がこの極楽寺坂切通から攻めかかった
そうですが、この切通は幕府軍の守りが固く、
稲村ケ崎を回って鎌倉に攻め込んだそうです。
極楽寺駅に架かる桜橋に辿り着きました。

撮影: 2012年10月
桜橋をくぐると、極楽寺駅に停車します。
この山門は1863年(文久3年)に再建されています。

撮影: 2012年10月
三男・北条重時が創建し、奈良の西大寺の
僧・忍性が開山として迎えられたそうです。
和賀江嶋
(Wakaejima)
京浜急行逗子線の終着駅、新逗子・葉山駅から
住吉城を訪れ、その後に鎌倉に向かいました。
三崎港の散策記はこちらです。
京浜急行逗子線の乗車記はこちらです。
住吉城の登城記はこちらです。
鎌倉の街の南側の由比ヶ浜の海岸の向こうに
遠く、江ノ島と稲村ヶ崎が見えていました。

撮影: 2012年4月
この海岸線に、波打ち際から少し離れた所に
砂利の"島"がありました。

撮影: 2012年4月
鎌倉時代に築かれた人工島という事です。
日本最古の人工島ということで、
国の史跡に指定されています。

撮影: 2012年4月
水深が浅い事もあり、事故が増えていたそうです。
1232年に往阿弥陀仏という勧進聖の発案で、
沖合に人工島を築くことになったそうで、
鎌倉幕府の支援もあったそうです。

撮影: 2012年4月
人たちがいて、のどかな休日の午後を感じる光景でした。
稲村ヶ崎、七里ヶ浜
(Inamuragasaki & Shichiri ga hama)
2001年12月の鎌倉行きは、
藤沢から江ノ電に乗って出かけました。
江ノ島電鉄の乗車記はこちらです。
この時は、江ノ島電鉄の未乗区間に乗ることが
主目的でしたが、七里ヶ浜で途中下車してみました。
駅から少し歩いて浜辺に出てみました。
抜けるような青空と、青い海。
暮れも押し迫った12月とは
思えないような景色です。
上の写真は、稲村ヶ崎から鎌倉方面を見たところ
この反対側には江ノ島が見えていました。
この稲村ヶ崎は鎌倉の西の要害で、
鎌倉幕府を倒した新田義貞はここから
鎌倉に攻め込んだそうです。
そんな歴史にも彩られた稲村ヶ崎ですが
澄み渡った日には遠く富士山も見えるそうです。
2001年に訪れた際には稲村ヶ崎を
ちらっと見た後、北鎌倉に向かいましたが、
2008年に鎌倉を訪れた際にも
湘南の浜辺に行ってみました。
この時は、もう一駅江ノ島寄りの
鎌倉高校前で下車してみました。
稲村ヶ崎から西に砂浜が続き、
この辺りは七里ヶ浜と呼ばれているようです。
海が真正面に広がる鎌倉高校駅から
しばらく西に歩き、浜辺に出ました。

小動岬の向こうに江ノ島が見えています。
小動岬と江ノ島の間が腰越で、
頼朝に許しを得ようと鎌倉に向かった
義経が足止めを受けたところです。
打ち寄せる波の向こうには
逗子や葉山あたりの丘陵地が
霞んで見えていました。
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腰越界隈
(Koshigoe)
腰越は、稲村ヶ崎から七里ヶ浜へと
続く浜辺が小動岬によって隔たれた先、
江ノ島へと続く砂嘴の東側の地名です。
鎌倉の西の端のこの地は、
義経悲劇の地として知られています。
その地は、江ノ島電鉄を腰越で下車し、
東に向かい、江ノ島電鉄の小さな踏切を
越えたところにありました。
義経の腰越状で知られる満福寺です。
1180年(治承4年)の源頼朝の挙兵に加わった義経は、
一の谷、屋島そして壇ノ浦での戦いに勝利し、
平氏滅亡への殊勲を挙げます。
屋島の様子はこちらです。
壇ノ浦のある下関の様子はこちらです。
しかし、朝廷からの官位を無断で受けたとの事や
平氏追捕の戦いでの独断専行を咎められ、
兄の頼朝の怒りをかい、壇ノ浦で捕虜とした
平宗盛・清宗父子を伴って鎌倉に凱旋したものの
鎌倉入りを許されず、この腰越の地に留まったそうです。
義経が逗留していたと伝わる満福寺です。
境内はそれ程広くはなく、本堂も作り変えられたのか、
比較的新しく、一見、どこにでもあるお寺ですが、
創建は744年(天平16年)に、僧・行基によるそうです。
外見に似ず歴史の古い満福寺ですが、
本堂の前には弁慶の手玉石や腰掛石がありました。
義経と弁慶主従はこの満福寺に2週間近くも留め置かれ、
結局、鎌倉入りを許されず、空しく京に戻ったとされています。
その間に、義経が頼朝の側近、大江広元に
託した嘆願文が世に名高い腰越状です。
その腰越状の控が満福寺に展示されていました。
満福寺にこの書状が残ったのは、文中の
「不顧為敵亡命」の字が抜けたためだそうです。
腰越状については、その真贋も疑われているそうですが、
平家討伐の武功を挙げ、父の敵討ちを果たした義経が
兄の頼朝から敵視され、ついには平泉まで落ち延び
そこで殺されてしまうのは事実であり、義経の波乱万丈の
そして哀しい最期については胸が痛む思いがします。
義経最期の地、平泉の様子はこちらです。
義経の、決して幸せではなかったと思われる
短い人生に思いを馳せ、満福寺の
階段を下りていると、目の前の踏切を
江ノ島電鉄の電車が横切っていきました。
この江ノ島電鉄の様子は
なかなか趣がありました。
江ノ島電鉄の乗車記はこちらです。
満福寺から腰越の駅に戻る途中で
雰囲気のある神社を見かけました。
小動(こゆるぎ)神社です。
12世紀の源平合戦の際に創建された神社だそうですが
1333年(元弘3年)には、新田義貞が鎌倉攻めの際に
戦勝祈願を行った神社だそうです。
木々に囲まれた参道を歩いていくと
参道とは直角に本殿が位置していました。
この小動神社は、七里ヶ浜の西の端に突き出た
小動岬にあり、境内の裏手は高台になっていて
ここから湘南の海や江ノ島が見えました。
湘南の海に浮かぶ江ノ島は、
やはり絵になる光景でした。
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