中洲界隈
福岡市の街の真ん中を那珂川が流れています。
この川が、かつての城下町"福岡"と
商人の町"博多"を分けています。

撮影: 2010年12月
この那珂川の中州が、歓楽街で有名な福岡の中洲です。
中洲では、那珂川に沿って、遊歩道が続いています。
ここに、夜になると屋台がずらりと並びます。

撮影: 2010年12月
中洲の西側を横切る昭和通りに架かる西中島橋の
袂に古い赤レンガの建物がありました。

撮影: 2010年12月
1909年(明治42年)に竣工した
日本生命の九州支店だった建物で、
1969年(昭和44年)に重要文化財に指定されています。
このすぐ南に趣のある神社がありました。
菅原道真を祀る水鏡神社です。

撮影: 2010年12月
901年(延喜元年)に、京から大宰府に向かう
途中の菅原道真が清流に自分の姿を
映した場所に建てられたそうです。
大宰府の様子はこちらです。

撮影: 2010年12月
水鏡神社は、街中にあるとは
思えないような佇まいの神社でした。
水鏡神社から東に向かい、那珂川の畔に戻ると
薬院新川との合流点付近に公園が広がり
そこに瀟洒な洋館がありました。

撮影: 2010年12月
旧福岡県公会堂貴賓室です。
先ほどの赤煉瓦の旧日本生命九州支店の建物と
同じく1909年(明治42年)に竣工しています。
この時、九州沖縄八県連合共進会という
イベントが開かれたようで、この時に
福岡に多くの建物が建てられたのでしょうか。
旧福岡県公会堂貴賓室のすぐ近くに
架かる福博であい橋です。

撮影: 2010年12月
中洲を隔てる福岡と博多の街が出会う
いう意味で付けられたのでしょうか。
この橋の架かる川が那珂川で、
川を渡った先が中洲です。
那珂川に沿って東に向かうと
中洲の南端に古い灯篭がありました。

撮影: 2010年12月
博多町家寄進高灯篭です。
1899年(明治32年)に博多の漬物商・八尋利兵衛が
「向島」という遊園地を作った際に広告塔として
建てたものだそうで、1954年(昭和29年)に
現在地に移設されたそうです。
まるで那珂川を航行する船の灯台のような趣でした。

撮影: 2010年12月
博多町家寄進高灯篭の向かいには、
キャナルシティ博多が建っています。

撮影: 2010年12月
1996年に開業した大規模商業施設で
ハイクラスなホテルも併設されています。

撮影: 2010年12月
キャナルシティ博多の内部の様子です。
内部に運河が作られています。
多くの人で賑わうキャナルシティ博多を出て
博多川を渡ると、その先には風俗店や
ラブホテルの建物が林立しています。

撮影: 2010年12月
こちらが以前の中洲の様子と思います。
今も夜になると、夜の街としても
賑わっている事でしょう。
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櫛田神社
2010年12月に福岡に出張があり、その際に
中洲のホテルに泊まったので、時間のある時に
この櫛田神社に立寄ってみました。
櫛田神社は中洲の東にあります。
創建は757年(天平宝字元年)と伝わる
歴史ある神社です。
伊勢は松阪にあった櫛田神社を勧請して建立したと
言われているそうですが、遠く離れた伊勢の地と、
どのような繋がりがあったか、と思いますが、平清盛が
肥前・神埼の櫛田宮を勧請したという説が有力だそうです。

撮影: 2010年12月
櫛田神社の立派な社殿は、秀吉が博多の町を
復興させた時のものだそうです。
大通りに面して建つ楼門です。

撮影: 2010年12月
この楼門を抜けると、右手に空き地が広がり、
前方には廻廊に囲まれた感じで中神門がありました。

撮影: 2010年12月
境内はコンパクトな感じで、中神門のすぐ先に
本殿と拝殿がありました。
拝殿の横には霊泉鶴の井戸がありました。
この井戸の水を飲むと長寿の願いが
叶うそうです。

撮影: 2010年12月
本殿の右手には博多塀という古い塀がありました。

撮影: 2010年12月
博多塀は、秀吉が天下を取った後に、大内氏と毛利氏や
島津氏との間で行われた戦で荒廃した博多の町の復興を
した際に築かれ、ここに残るものは博多三傑の一人、
嶋井宗室の屋敷に築かれたものを移築したそうです。
その隣には、川上音二郎寄進の碑がありました。

撮影: 2010年12月
川上音二郎は功を成した後、故郷の櫛田神社に
宅地・建物を寄進したそうです。
こうして境内を散策するうちに、
山笠の飾りを見つけました。

撮影: 2010年12月
事前の知識は無かったのですが、この櫛田神社は
博多三大祭の博多祇園山笠、博多おくんち、
博多どんたくのうち、博多山笠と博多おくんちの
祭事を行う神社になっているそうです。

撮影: 2010年12月
境内にはもう一つ山笠の飾り山がありました。
博多山笠は毎年7月1日から15日にかけて
行われるそうで多くの人で賑わうことと思います。
いつか、そのお祭りを見る機会があればと思います。
境内の南側には別宮の恵比寿神社もありました。

撮影: 2010年12月
櫛田神社は、コンパクトな境内に見所が満載でした。
他にも蒙古碇石などもあったようですが、
見逃してしまいました。

撮影: 2010年12月
南神門の様子です。
奉納された酒樽の多さも、
神社の人気の様子が伺えました。
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聖福寺・東長寺界隈
中洲から北に向かい、博多駅から延びる
大博通りを超えた辺りに、臨済宗の
お寺が建ち並ぶ一角があります。
2010年12月にこの一角にある聖福寺、妙楽寺、
承天寺そして、東長寺などを訪れました。
その様子を紹介します。
聖福寺
聖福寺は、1195年(建久6年)に
源頼朝によって創建されたお寺です。
開山は、臨済宗の開祖・栄西禅師です。
栄西禅師の出身地は、岡山の吉備路にある
吉備津神社からすぐのところです。
吉備津神社の様子はこちらです。

撮影: 2010年12月
立派な塀が通りに面して続き、
威厳ある勅使門がありました。
栄西禅師は、この3年前に臨済宗黄龍派の法を
継承し中国から戻っていて、この聖福寺が
日本で最初の禅宗のお寺になっています。
勅使門の隣にある総門から境内に入りました。
総門からは参道がまっすぐに伸び、
その途中に鐘楼が建っていました。

撮影: 2010年12月
左手には勅使門の正面の池の向こうに
堂々とした山門が建っていました。

撮影: 2010年12月
山門の後ろには本堂が建っていますが、
この時は、残念ながら修復中で
すっぽりと覆いが被されていました。

撮影: 2010年12月
本堂へは、鐘楼の脇の参道の先に門があります。
この門に回ってみたのですが、生憎
「拝顔謝絶」の札が掲げられていました。

撮影: 2010年12月
この「拝顔謝絶」は臨済宗のお寺では
ちょくちょく目にします。
修行の場という事なのでしょうか。
門から眺めた庫裡の様子です。

撮影: 2010年12月
往時、聖福寺は38もの塔頭があったそうです。
いまはひっそりとしていますが、その歴史故、
境内すべてが国の史跡になっているそうです。
鐘楼の脇の参道にはお茶の木が植えられていました。

撮影: 2010年12月
栄西禅師が中国から茶を持って帰ったそうで、
吉野ヶ里でお茶の栽培を始めたそうです。
これが日本でのお茶の始まりだそうで、この
聖福寺でもお茶の栽培がされたそうです。
妙楽寺
聖福寺の東隣りに妙楽寺がありました。
妙楽寺の創建は1316年(正和5年)です。
創建当時は博多湾に面した沖の浜にあったようで、
海からは石の城のように見えたそうです。

撮影: 2010年12月
当時は遣明使一行が、この妙楽寺に
宿泊していたそうです。

撮影: 2010年12月
門を入ってすぐの所にある鐘楼です。
この妙楽寺も聖福寺と同じく臨済宗のお寺です。
1586年(天正14年)に焼失し、1600年(慶長5年)に
黒田長政が福岡に入ると、この地に移転したそうです。

撮影: 2010年12月
門を入った左手に塀が続き、その奥に
堂宇がありましたが、ここも塀の
向こう側には行けませんでした。
この妙楽寺は「ういろう」発祥の地
として知られ、碑も立っていました。

撮影: 2010年12月
14世紀半ばの中国は元が滅び明が成立した時期で、
その混乱のため、陳延祐という医薬に関する
官職に就いていた人が亡命して来たそうです。
陳は「陳外郎」という姓を名乗り、その子・
宗奇が、「外郎薬」を売り出したそうです。
この「外郎薬」を足利義満に献上したのですが
とても苦かった為に口直しで米粉の菓子を
添えて出したそうです。
この菓子が「ういろう」という名で
広まったという事ですが、元々の"外郎"は
定員外の役職という意味だそうです。
承天寺
妙楽寺から更に東に向かい、国道202号線を
越えると承天寺がありました。

撮影: 2010年12月
承天寺は聖一国師によって1241年
(仁治2年)に創建されています。
門をくぐった境内の様子です。

撮影: 2010年12月
静かな境内は他に人はいませんでした。
門は閉まっていましたが、方丈の前に
広がる石庭を眺めることが出来ました。

撮影: 2010年12月
この庭は「洗濤庭」と名が付いていて
京都の庭園のような佇まいでした。
承天寺を創建した聖一国師も中国に留学
していたそうですが、その際に製粉技術と
蕎麦・饂飩を持ち帰ったそうです。

撮影: 2010年12月
境内には、その碑が立っていました。
お饅頭も聖一国師が初めて日本に伝えたそうです。
「御饅頭所」の看板も中国から持ち帰ったそうで、
その看板は東京・虎屋に現存しているそうです。
東長寺
承天寺から西に向かうと、大通に面して
大きなお堂のあるお寺がありました。

撮影: 2010年12月
806年(大同元年)に空海が創建した東長寺です。
戦国時代の兵火で寺勢が衰え、荒廃していた
そうですが、福岡藩二代藩主・黒田忠之が、
現在地に移転させ、堂宇を整備したそうです。
創建当時は、現在の場所から北西に
3km程行った呉服町辺りにあったそうです。
門をくぐると本堂の前に六角堂がありました。
1842年(天保13年)に建立されたものです。

撮影: 2010年12月
六角堂の前にある本堂はとても大きなお堂で
それまで巡ってきた臨済宗のお寺とは
趣が異なっていました。

撮影: 2010年12月
通りに面した壁の内側には石仏が並んでいました。
本堂を過ぎると、五重塔が見えてきました。

撮影: 2010年12月
この五重塔の奥に福岡藩主だった
黒田氏のお墓がありました。
黒田氏のお墓は福岡市内の崇福寺や東京・渋谷の
祥雲寺にもあるそうですが、この東長寺には、
二代・黒田忠之公、三代・光之公そして
八代・治高公のお墓があります。

撮影: 2010年12月
上の写真は、二代・黒田忠之公のお墓です。
黒田忠之は、この東長寺を復興させた人です。
お墓は、とても立派なものでした。

撮影: 2010年12月
二代・忠之公のお墓の奥に、三代・光之公と
八代・治高公のお墓がありました。
どちらのお墓も同じつくりの五輪塔で、
堂々としたお墓でした。
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崇福寺
崇福寺は福岡県庁近くにある臨済宗のお寺です。
1240年(仁治元年)に大宰府で創建されています。
福岡藩の初代藩主・黒田長政により、1600年
(慶長5年)に現在地に移築されました。
崇福寺には立派な山門がありました。

撮影: 2012年7月
この門は、福岡城の本丸表御門を移築したものです。
福岡城の登城記はこちらです。
丁度、お坊さんが外出先から戻るところに出会いました。

撮影: 2012年7月
山門から続く参道の向こうに庫裏が見えています。
山門をくぐり、庫裏へと続く参道の様子です。

撮影: 2012年7月
参道の途中には心宗庵がありました。
心宗庵は、崇福寺唯一の塔頭です。

撮影: 2012年7月
そして参道の突き当りに、築地塀に囲われた
正面に庫裏へと向かう表門がありました。

撮影: 2012年7月
この門の左手に、崇福寺唐門があります。

撮影: 2012年7月
この唐門は、名島城の門を移築したものです。
名島城址にはほぼ遺構が残っていませんでしたが、
この様な装飾豊かな門があったという事は、
きっと立派な御殿もあったのではないでしょうか。
名島城の登城記はこちらです。
表門をくぐると、本堂と庫裏があります。

撮影: 2012年7月
表門の左手には経蔵がありました。
この経蔵の佇まいは落ち着いて素敵なものでした。

撮影: 2012年7月
表門から築地塀の外に出ました。
築地塀は本堂を囲むように続いていました。

撮影: 2012年7月
表門から左手に向かって進み、角を曲がり
奥に向かうと、再び門がありました。

撮影: 2012年7月
この門は、黒田家墓所への入口の門です。
黒田家墓所には黒田官兵衛、黒田長政他、
福岡藩主だった黒田家一族のお墓があります。
黒田家のお墓は、中心部に近い東長寺にもあります。

撮影: 2012年7月
黒田家墓所は週末だけ公開されているようです。
訪れた時は平日で、中に入ることは出来ませんでした。
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筥崎宮
筥崎宮は福岡市の中心、天神から北東に
3.6km程のところにある歴史ある神社です。
創建は923年(延長元年)、筑後国一宮になっています。
福岡市交通局の地下鉄・箱崎宮前駅から筥崎宮とは
反対方向に5分ほど歩くと筥崎宮の大鳥居が見えてきました。

撮影: 2012年7月
1930年(昭和5年)に建てられたとても立派で大きな鳥居です。
鉄筋コンクリート製の鳥居で、高さ16mありましたが、
老朽化の為、2018年(平成30年)に解体されました。
この大鳥居は玄界灘に近く、西を眺めると
海に沈みゆく夕陽が輝いていました。

撮影: 2012年7月
大鳥居のすぐ近くには浜宮があります。

撮影: 2012年7月
浜宮(頓宮)は、隔年に行われる御神幸の
際に神様が遷御される宮との事です。
大鳥居から筥崎宮の本殿までは600m程の距離があり、
その間を幅の広い参道が一直線に続いていました。

撮影: 2012年7月
参道を歩いていくと、古風な門がありました。
この門は、筥崎宮花庭園の入口の門です。

撮影: 2012年7月
花庭園は1987年(昭和62年)に開園した日本庭園です。
古くは、1587年(天正15年)に豊臣秀吉が
この場所で大茶会を開いたそうです。
大鳥居から400mちょっと歩くと二之鳥居がありました。

撮影: 2012年7月
二之鳥居から150m程歩くと一之鳥居です。
一之鳥居は1609年(慶長14年)に、
福岡藩主の黒田長政が建立しています。
国の重要文化財に指定されています。

撮影: 2012年7月
一之鳥居をくぐると筥崎宮の境内となりました。
普段なら多くの参拝客が訪れている事と思いますが、
訪れた時には午後6時半を回っており、
静かな境内でした。

撮影: 2012年7月
西陽を受けて輝く楼門です。
楼門は、1594年(文禄3年)に小早川隆景が建立しています。
一般の参拝客は、楼門から先には行けないようでしたが、
楼門の奥には拝殿と本殿が建っています。

撮影: 2012年7月
本殿と拝殿は古くは921年(延喜21年)に造営された記録が残っています。
現存する本殿と拝殿は1546年(天文15年)に大内義隆が建立したそうです。
本殿、拝殿そして楼門も、国の重要文化財に指定されています。
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香椎宮
香椎宮は、福岡市の北東部に位置する神社です。
仲哀天皇、神功皇后を祀る神社です。
仲哀天皇は日本武尊の子で、神功皇后の夫だった
人物ですが、実在が疑われている天皇の一人です。
熊襲討伐の為にこの地に赴きましたが、その戦いに敗れ、
200年(仲哀天皇9年)にこの地で崩御したとされています。
JR香椎線の香椎神宮駅から北に5分程歩くと
香椎宮の二の鳥居が見えてきました。
ちなみに、一の鳥居は、ここから700m程西、
鹿児島本線の踏切の近くにあるようです。

撮影: 2012年7月
二の鳥居をくぐると、左手に庭園が見えています。
「しょうぶ池」の中心に島に弁財天を祀る社がありました。

撮影: 2012年7月
この先に、短い石段を上ると楼門があります。

撮影: 2012年7月
この楼門は重厚な建物で歴史を感じますが、
意外にも1903年(明治36年)に建てられたものです。
楼門の先が、香椎宮の神域になります。
楼門を抜けると、目の前に大きな杉の木が見え、
その左手に、石段が続いていました。

撮影: 2012年7月
赤い玉垣に囲われた杉は、神功皇后が三種の神器をここに埋め、
その時、鎧の袖に挿していた杉枝を植えたものだそうです。
この伝説によれば、樹齢1800年にもなります。
本殿へと向かう石段です。

撮影: 2012年7月
石段の上には朱塗りの中門が聳えていました。
中門に続いて、同じく朱塗りの拝殿が続いています。

撮影: 2012年7月
拝殿の奥に、柿葺の幣殿と本殿が続いていました。

撮影: 2012年7月
これら本殿の建造物群は、香椎造と呼ばれ、
他には見られない建築様式という事です。
国の重要文化財にも指定されています。
これらの建物は、1801年(享和元年)に、
福岡藩主・黒田斉清が再建したものです。
本殿の裏側に玉垣があり、門から外に出られました。

撮影: 2012年7月
本殿から玉垣を出た所にある巻尾神社(下左写真)です。
巻尾神社は、仲哀天皇・神功皇后に仕えた
中臣烏賊津大連命を祀る神社です。

撮影: 2012年7月
上右写真は稲荷神社と鶏石神社です。
この本殿一帯の杜の北側に、古宮があります。

撮影: 2012年7月
この古宮は、仲哀天皇が熊襲征伐の為に
赴いた橿日宮の跡と言われているようです。
この地が、仲哀天皇崩御の地ともされています。
香椎の名前の所縁となった御神木の椎の木が
玉垣に囲われた中にありました(下左写真)。

撮影: 2012年7月
仲哀天皇の設置した橿日宮の跡を示す
大本営御旧蹟碑も立っていました。
ちなみに、仲哀天皇陵は、宮内庁により大阪府
藤井寺市の岡ミサンザイ古墳に比定されています。
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