福岡

Fukuoka, Japan

福岡は福岡県の県庁所在地です。

江戸時代は、福岡城のあった城下町が福岡、
中洲を挟んで博多は商人の町だったそうです。

市制を布く際に、JRの駅のある博多との間で
市の名前を決める投票になった際に、僅か
一票差で、"福岡市"になったと聞きます。

福岡市の人口は150万人を越え、
日本で5番目に人口の多い都市です。
そんな大都会・福岡ですが、歴史の薫も
色濃く漂う街だと思います。

中洲界隈
(Nakasu Area)
June 16, '17

櫛田神社
(Kushida Shrine)
May 31, '17

聖福寺・東長寺界隈
(Shofukuji & Tochoji Area)
June 08, '17

福岡城
(Fukuoka Castle) 
May 05, '09

大濠公園
(Ohori Koen Park)

崇福寺
(Sohukuji Temple)
Sep. 23, '25

筥崎宮
(Hakozaki Gu Shrine) 
Sep. 15, '25

香椎宮
(Kashii Gu Shrine)
NEW ! Sep. 28, '25

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中洲界隈

福岡市の街の真ん中を那珂川が流れています。
この川が、かつての城下町"福岡"と
商人の町"博多"を分けています。


撮影: 2010年12月

この那珂川の中州が、歓楽街で有名な福岡の中洲です。

中洲では、那珂川に沿って、遊歩道が続いています。
ここに、夜になると屋台がずらりと並びます。


撮影: 2010年12月

中洲の西側を横切る昭和通りに架かる西中島橋の
袂に古い赤レンガの建物がありました。


撮影: 2010年12月

1909年(明治42年)に竣工した
日本生命の九州支店だった建物で、
1969年(昭和44年)に重要文化財に指定されています。

このすぐ南に趣のある神社がありました。
菅原道真を祀る水鏡神社です。


撮影: 2010年12月

901年(延喜元年)に、京から大宰府に向かう
途中の菅原道真が清流に自分の姿を
映した場所に建てられたそうです。
大宰府の様子は
こちらです。


撮影: 2010年12月

水鏡神社は、街中にあるとは
思えないような佇まいの神社でした。

水鏡神社から東に向かい、那珂川の畔に戻ると
薬院新川との合流点付近に公園が広がり
そこに瀟洒な洋館がありました。


撮影: 2010年12月

旧福岡県公会堂貴賓室です。
先ほどの赤煉瓦の旧日本生命九州支店の建物と
同じく1909年(明治42年)に竣工しています。

この時、九州沖縄八県連合共進会という
イベントが開かれたようで、この時に
福岡に多くの建物が建てられたのでしょうか。

旧福岡県公会堂貴賓室のすぐ近くに
架かる福博であい橋です。


撮影: 2010年12月

中洲を隔てる福岡と博多の街が出会う
いう意味で付けられたのでしょうか。

この橋の架かる川が那珂川で、
川を渡った先が中洲です。

那珂川に沿って東に向かうと
中洲の南端に古い灯篭がありました。


撮影: 2010年12月

博多町家寄進高灯篭です。

1899年(明治32年)に博多の漬物商・八尋利兵衛が
「向島」という遊園地を作った際に広告塔として
建てたものだそうで、1954年(昭和29年)に
現在地に移設されたそうです。

まるで那珂川を航行する船の灯台のような趣でした。


撮影: 2010年12月

博多町家寄進高灯篭の向かいには、
キャナルシティ博多が建っています。


撮影: 2010年12月

1996年に開業した大規模商業施設で
ハイクラスなホテルも併設されています。


撮影: 2010年12月

キャナルシティ博多の内部の様子です。
内部に運河が作られています。

多くの人で賑わうキャナルシティ博多を出て
博多川を渡ると、その先には風俗店や
ラブホテルの建物が林立しています。


撮影: 2010年12月

こちらが以前の中洲の様子と思います。
今も夜になると、夜の街としても
賑わっている事でしょう。

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櫛田神社

2010年12月に福岡に出張があり、その際に
中洲のホテルに泊まったので、時間のある時に
この櫛田神社に立寄ってみました。

櫛田神社は中洲の東にあります。
創建は757年(天平宝字元年)と伝わる
歴史ある神社です。

伊勢は松阪にあった櫛田神社を勧請して建立したと
言われているそうですが、遠く離れた伊勢の地と、
どのような繋がりがあったか、と思いますが、平清盛が
肥前・神埼の櫛田宮を勧請したという説が有力だそうです。


撮影: 2010年12月

櫛田神社の立派な社殿は、秀吉が博多の町を
復興させた時のものだそうです。

大通りに面して建つ楼門です。


撮影: 2010年12月

この楼門を抜けると、右手に空き地が広がり、
前方には廻廊に囲まれた感じで中神門がありました。


撮影: 2010年12月

境内はコンパクトな感じで、中神門のすぐ先に
本殿と拝殿がありました。

拝殿の横には霊泉鶴の井戸がありました。
この井戸の水を飲むと長寿の願いが
叶うそうです。


撮影: 2010年12月

本殿の右手には博多塀という古い塀がありました。


撮影: 2010年12月

博多塀は、秀吉が天下を取った後に、大内氏と毛利氏や
島津氏との間で行われた戦で荒廃した博多の町の復興を
した際に築かれ、ここに残るものは博多三傑の一人、
嶋井宗室の屋敷に築かれたものを移築したそうです。

その隣には、川上音二郎寄進の碑がありました。


撮影: 2010年12月

川上音二郎は功を成した後、故郷の櫛田神社に
宅地・建物を寄進したそうです。

こうして境内を散策するうちに、
山笠の飾りを見つけました。


撮影: 2010年12月

事前の知識は無かったのですが、この櫛田神社は
博多三大祭の博多祇園山笠、博多おくんち、
博多どんたくのうち、博多山笠と博多おくんちの
祭事を行う神社になっているそうです。


撮影: 2010年12月

境内にはもう一つ山笠の飾り山がありました。

博多山笠は毎年7月1日から15日にかけて
行われるそうで多くの人で賑わうことと思います。
いつか、そのお祭りを見る機会があればと思います。

境内の南側には別宮の恵比寿神社もありました。


撮影: 2010年12月

櫛田神社は、コンパクトな境内に見所が満載でした。
他にも蒙古碇石などもあったようですが、
見逃してしまいました。


撮影: 2010年12月

南神門の様子です。
奉納された酒樽の多さも、
神社の人気の様子が伺えました。

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聖福寺・東長寺界隈

中洲から北に向かい、博多駅から延びる
大博通りを超えた辺りに、臨済宗の
お寺が建ち並ぶ一角があります。

2010年12月にこの一角にある聖福寺、妙楽寺、
承天寺そして、東長寺などを訪れました。

その様子を紹介します。

聖福寺

聖福寺は、1195年(建久6年)に
源頼朝によって創建されたお寺です。
開山は、臨済宗の開祖・栄西禅師です。

栄西禅師の出身地は、岡山の吉備路にある
吉備津神社からすぐのところです。
吉備津神社の様子は
こちらです。


撮影: 2010年12月

立派な塀が通りに面して続き、
威厳ある勅使門がありました。

栄西禅師は、この3年前に臨済宗黄龍派の法を
継承し中国から戻っていて、この聖福寺が
日本で最初の禅宗のお寺になっています。

勅使門の隣にある総門から境内に入りました。
総門からは参道がまっすぐに伸び、
その途中に鐘楼が建っていました。


撮影: 2010年12月

左手には勅使門の正面の池の向こうに
堂々とした山門が建っていました。


撮影: 2010年12月

山門の後ろには本堂が建っていますが、
この時は、残念ながら修復中で
すっぽりと覆いが被されていました。


撮影: 2010年12月

本堂へは、鐘楼の脇の参道の先に門があります。
この門に回ってみたのですが、生憎
「拝顔謝絶」の札が掲げられていました。


撮影: 2010年12月

この「拝顔謝絶」は臨済宗のお寺では
ちょくちょく目にします。
修行の場という事なのでしょうか。

門から眺めた庫裡の様子です。


撮影: 2010年12月

往時、聖福寺は38もの塔頭があったそうです。
いまはひっそりとしていますが、その歴史故、
境内すべてが国の史跡になっているそうです。

鐘楼の脇の参道にはお茶の木が植えられていました。


撮影: 2010年12月

栄西禅師が中国から茶を持って帰ったそうで、
吉野ヶ里でお茶の栽培を始めたそうです。
これが日本でのお茶の始まりだそうで、この
聖福寺でもお茶の栽培がされたそうです。

妙楽寺

聖福寺の東隣りに妙楽寺がありました。

妙楽寺の創建は1316年(正和5年)です。
創建当時は博多湾に面した沖の浜にあったようで、
海からは石の城のように見えたそうです。


撮影: 2010年12月

当時は遣明使一行が、この妙楽寺に
宿泊していたそうです。


撮影: 2010年12月

門を入ってすぐの所にある鐘楼です。

この妙楽寺も聖福寺と同じく臨済宗のお寺です。
1586年(天正14年)に焼失し、1600年(慶長5年)に
黒田長政が福岡に入ると、この地に移転したそうです。


撮影: 2010年12月

門を入った左手に塀が続き、その奥に
堂宇がありましたが、ここも塀の
向こう側には行けませんでした。

この妙楽寺は「ういろう」発祥の地
として知られ、碑も立っていました。


撮影: 2010年12月

14世紀半ばの中国は元が滅び明が成立した時期で、
その混乱のため、陳延祐という医薬に関する
官職に就いていた人が亡命して来たそうです。

陳は「陳外郎」という姓を名乗り、その子・
宗奇が、「外郎薬」を売り出したそうです。
この「外郎薬」を足利義満に献上したのですが
とても苦かった為に口直しで米粉の菓子を
添えて出したそうです。

この菓子が「ういろう」という名で
広まったという事ですが、元々の"外郎"は
定員外の役職という意味だそうです。

承天寺

妙楽寺から更に東に向かい、国道202号線を
越えると承天寺がありました。


撮影: 2010年12月

承天寺は聖一国師によって1241年
(仁治2年)に創建されています。
門をくぐった境内の様子です。


撮影: 2010年12月

静かな境内は他に人はいませんでした。
門は閉まっていましたが、方丈の前に
広がる石庭を眺めることが出来ました。


撮影: 2010年12月

この庭は「洗濤庭」と名が付いていて
京都の庭園のような佇まいでした。

承天寺を創建した聖一国師も中国に留学
していたそうですが、その際に製粉技術と
蕎麦・饂飩を持ち帰ったそうです。


撮影: 2010年12月

境内には、その碑が立っていました。
お饅頭も聖一国師が初めて日本に伝えたそうです。
「御饅頭所」の看板も中国から持ち帰ったそうで、
その看板は東京・虎屋に現存しているそうです。

東長寺

承天寺から西に向かうと、大通に面して
大きなお堂のあるお寺がありました。


撮影: 2010年12月

806年(大同元年)に空海が創建した東長寺です。

戦国時代の兵火で寺勢が衰え、荒廃していた
そうですが、福岡藩二代藩主・黒田忠之が、
現在地に移転させ、堂宇を整備したそうです。

創建当時は、現在の場所から北西に
3km程行った呉服町辺りにあったそうです。

門をくぐると本堂の前に六角堂がありました。
1842年(天保13年)に建立されたものです。


撮影: 2010年12月

六角堂の前にある本堂はとても大きなお堂で
それまで巡ってきた臨済宗のお寺とは
趣が異なっていました。


撮影: 2010年12月

通りに面した壁の内側には石仏が並んでいました。
本堂を過ぎると、五重塔が見えてきました。


撮影: 2010年12月

この五重塔の奥に福岡藩主だった
黒田氏のお墓がありました。

黒田氏のお墓は福岡市内の崇福寺や東京・渋谷の
祥雲寺にもあるそうですが、この東長寺には、
二代・黒田忠之公、三代・光之公そして
八代・治高公のお墓があります。


撮影: 2010年12月

上の写真は、二代・黒田忠之公のお墓です。
黒田忠之は、この東長寺を復興させた人です。
お墓は、とても立派なものでした。


撮影: 2010年12月

二代・忠之公のお墓の奥に、三代・光之公と
八代・治高公のお墓がありました。
どちらのお墓も同じつくりの五輪塔で、
堂々としたお墓でした。

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崇福寺

崇福寺は福岡県庁近くにある臨済宗のお寺です。
1240年(仁治元年)に大宰府で創建されています。
福岡藩の初代藩主・黒田長政により、1600年
(慶長5年)に現在地に移築されました。

崇福寺には立派な山門がありました。


撮影: 2012年7月

この門は、福岡城の本丸表御門を移築したものです。

福岡城の登城記はこちらです。

丁度、お坊さんが外出先から戻るところに出会いました。


撮影: 2012年7月

山門から続く参道の向こうに庫裏が見えています。
山門をくぐり、庫裏へと続く参道の様子です。


撮影: 2012年7月

参道の途中には心宗庵がありました。
心宗庵は、崇福寺唯一の塔頭です。


撮影: 2012年7月

そして参道の突き当りに、築地塀に囲われた
正面に庫裏へと向かう表門がありました。


撮影: 2012年7月

この門の左手に、崇福寺唐門があります。


撮影: 2012年7月

この唐門は、名島城の門を移築したものです。
名島城址にはほぼ遺構が残っていませんでしたが、
この様な装飾豊かな門があったという事は、
きっと立派な御殿もあったのではないでしょうか。

名島城の登城記はこちらです。

表門をくぐると、本堂と庫裏があります。


撮影: 2012年7月

表門の左手には経蔵がありました。
この経蔵の佇まいは落ち着いて素敵なものでした。


撮影: 2012年7月

表門から築地塀の外に出ました。
築地塀は本堂を囲むように続いていました。


撮影: 2012年7月

表門から左手に向かって進み、角を曲がり
奥に向かうと、再び門がありました。


撮影: 2012年7月

この門は、黒田家墓所への入口の門です。
黒田家墓所には黒田官兵衛、黒田長政他、
福岡藩主だった黒田家一族のお墓があります。
黒田家のお墓は、中心部に近い東長寺にもあります。


撮影: 2012年7月

黒田家墓所は週末だけ公開されているようです。
訪れた時は平日で、中に入ることは出来ませんでした。

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筥崎宮

筥崎宮は福岡市の中心、天神から北東に
3.6km程のところにある歴史ある神社です。
創建は923年(延長元年)、筑後国一宮になっています。

福岡市交通局の地下鉄・箱崎宮前駅から筥崎宮とは
反対方向に5分ほど歩くと筥崎宮の大鳥居が見えてきました。


撮影: 2012年7月

1930年(昭和5年)に建てられたとても立派で大きな鳥居です。
鉄筋コンクリート製の鳥居で、高さ16mありましたが、
老朽化の為、2018年(平成30年)に解体されました。

この大鳥居は玄界灘に近く、西を眺めると
海に沈みゆく夕陽が輝いていました。


撮影: 2012年7月

大鳥居のすぐ近くには浜宮があります。


撮影: 2012年7月

浜宮(頓宮)は、隔年に行われる御神幸の
際に神様が遷御される宮との事です。

大鳥居から筥崎宮の本殿までは600m程の距離があり、
その間を幅の広い参道が一直線に続いていました。


撮影: 2012年7月

参道を歩いていくと、古風な門がありました。
この門は、筥崎宮花庭園の入口の門です。


撮影: 2012年7月

花庭園は1987年(昭和62年)に開園した日本庭園です。
古くは、1587年(天正15年)に豊臣秀吉が
この場所で大茶会を開いたそうです。

大鳥居から400mちょっと歩くと二之鳥居がありました。


撮影: 2012年7月

二之鳥居から150m程歩くと一之鳥居です。
一之鳥居は1609年(慶長14年)に、
福岡藩主の黒田長政が建立しています。
国の重要文化財に指定されています。


撮影: 2012年7月

一之鳥居をくぐると筥崎宮の境内となりました。

普段なら多くの参拝客が訪れている事と思いますが、
訪れた時には午後6時半を回っており、
静かな境内でした。


撮影: 2012年7月

西陽を受けて輝く楼門です。
楼門は、1594年(文禄3年)に小早川隆景が建立しています。
一般の参拝客は、楼門から先には行けないようでしたが、
楼門の奥には拝殿と本殿が建っています。


撮影: 2012年7月

本殿と拝殿は古くは921年(延喜21年)に造営された記録が残っています。
現存する本殿と拝殿は1546年(天文15年)に大内義隆が建立したそうです。
本殿、拝殿そして楼門も、国の重要文化財に指定されています。

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香椎宮

香椎宮は、福岡市の北東部に位置する神社です。
仲哀天皇、神功皇后を祀る神社です。

仲哀天皇は日本武尊の子で、神功皇后の夫だった
人物ですが、実在が疑われている天皇の一人です。
熊襲討伐の為にこの地に赴きましたが、その戦いに敗れ、
200年(仲哀天皇9年)にこの地で崩御したとされています。

JR香椎線の香椎神宮駅から北に5分程歩くと
香椎宮の二の鳥居が見えてきました。

ちなみに、一の鳥居は、ここから700m程西、
鹿児島本線の踏切の近くにあるようです。


撮影: 2012年7月

二の鳥居をくぐると、左手に庭園が見えています。
「しょうぶ池」の中心に島に弁財天を祀る社がありました。


撮影: 2012年7月

この先に、短い石段を上ると楼門があります。


撮影: 2012年7月

この楼門は重厚な建物で歴史を感じますが、
意外にも1903年(明治36年)に建てられたものです。

楼門の先が、香椎宮の神域になります。
楼門を抜けると、目の前に大きな杉の木が見え、
その左手に、石段が続いていました。


撮影: 2012年7月

赤い玉垣に囲われた杉は、神功皇后が三種の神器をここに埋め、
その時、鎧の袖に挿していた杉枝を植えたものだそうです。
この伝説によれば、樹齢1800年にもなります。

本殿へと向かう石段です。


撮影: 2012年7月

石段の上には朱塗りの中門が聳えていました。
中門に続いて、同じく朱塗りの拝殿が続いています。


撮影: 2012年7月

拝殿の奥に、柿葺の幣殿と本殿が続いていました。


撮影: 2012年7月

これら本殿の建造物群は、香椎造と呼ばれ、
他には見られない建築様式という事です。
国の重要文化財にも指定されています。

これらの建物は、1801年(享和元年)に、
福岡藩主・黒田斉清が再建したものです。

本殿の裏側に玉垣があり、門から外に出られました。


撮影: 2012年7月

本殿から玉垣を出た所にある巻尾神社(下左写真)です。
巻尾神社は、仲哀天皇・神功皇后に仕えた
中臣烏賊津大連命を祀る神社です。


撮影: 2012年7月

上右写真は稲荷神社と鶏石神社です。

この本殿一帯の杜の北側に、古宮があります。


撮影: 2012年7月

この古宮は、仲哀天皇が熊襲征伐の為に
赴いた橿日宮の跡と言われているようです。
この地が、仲哀天皇崩御の地ともされています。

香椎の名前の所縁となった御神木の椎の木が
玉垣に囲われた中にありました(下左写真)。


撮影: 2012年7月

仲哀天皇の設置した橿日宮の跡を示す
大本営御旧蹟碑も立っていました。

ちなみに、仲哀天皇陵は、宮内庁により大阪府
藤井寺市の岡ミサンザイ古墳に比定されています。

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