久里浜・衣笠界隈
Kurihama & Kinugasa Area, Japan

久里浜は、三浦半島中程の東側にあり、
東京湾に面した浜辺です。

浦賀とは岬を一つ隔てた位置にあります。

浦賀の散策記はこちらです。

久里浜湾は、幕末にペリーが上陸したところです。
久里浜湾の海岸から北西に6km程入った衣笠は、
平安時代から鎌倉時代にかけ、鎌倉幕府の
有力御家人だった三浦氏の本拠だったところです。

この2つの地区を紹介します。

久里浜湾、ペリー上陸地
(Landing Site of Commodore Perry)
May 04, '12

三浦氏本拠、衣笠
(Kinugasa: Stronghold of the MIURA Clan)
NEW! Sep. 05, '26

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久里浜湾、ペリー上陸地
(Landing Site of Commodore Perry)

1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、ペリー艦長率いる
アメリカ海軍艦隊は開国を迫る為に浦賀に来航します。

この時、浦賀奉行所は協議の上、ペリー一行を
この久里浜に上陸させる事にしたそうです。

ペリーが上陸した浜辺は公園として整備され、
立派な碑が立っていました。

この碑は1901年(明治34年)に建てられました。

碑文は伊藤博文の揮毫によるもので
「北米合衆圀水師提督伯理上陸記念碑」
と書かれています。

ペリー公園の様子です。



小雨の天気ですが、この碑を目当てに
訪れている人もいました。


公園内には、黒船来航で動揺する当時の
日本の様子を伝える川柳の碑がありました。



"太平の眠りを覚ます じょうきせん
たった 四はい で 夜も寝られず"


その昔、歴史の教科書で習ったこの川柳は、
数ある川柳の中でも、秀逸と思います。


公園の一角にあったペリー記念館です。



入り口にあった、浦賀奉行・戸田伊豆守氏栄と
マシュー・ペリー艦長の胸像です。



戸田伊豆守は本家・大垣藩から派遣された
130名の藩兵を率い、ペリーと接見したそうです。


ここには、日本に来航した4艘の米国海軍の
軍艦のジオラマの展示がありました。

旗艦のサスケハナ号とミシシッピー号、
プリマス号、そしてサラトガ号の4艘です。



この4艘のうち,蒸気船はサスケハナ号と
ミシシッピー号の2艘だったそうです。


ペリー公園の前に広がる久里浜の海です。



静かなこの海ですが、その時は黒船が浮かび、
浜には、大垣藩兵を含む多くの関係者で
ひしめきあっていた事でしょう。

ペリー上陸の様子を描いた絵です。



この写真はWikipediaの画像のリンクです

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三浦氏本拠、衣笠
(Kinugasa: Stronghold of the MIURA Clan)

JR横須賀線の衣笠駅から南に1km程の
所の丘陵地に、衣笠城址があります。


撮影: 2012年10月

衣笠城の登城記はこちらです。

この衣笠城は村岡為通が1050年に起きた前九年の役での
戦功で、衣笠城のある相模国三浦郷を授かり、1058年から
1064年の康平年間に築城したと言われています。

村岡為通は、以降、三浦氏を名乗ることになり、
三浦半島一体が支配地域となっています。

衣笠城址のすぐ下に大善寺がありました。
大善寺への階段です。


撮影: 2012年10月

大善寺は729年(天平元年)に諸国行脚中の
僧・行基が自ら彫刻した不動明王を祭った
事に始まるそうで、歴史の古いお寺です。


撮影: 2012年10月

現地案内板によると、大善寺は三浦一族の
仏教信仰の中心だったそうです。

特に不動尊は、二代・為継が後三年の役で
戦っている時に現れ、敵の矢を討ち払って
為継を助けたという逸話が残っているそうです。

衣笠城址を訪れた後、丘陵地の麓まで戻り、
交通量の多い県道を東に向かいました。
歩いて25分程のところに満昌寺がありました。


撮影: 2012年10月

満昌寺は1194年(建久5年)に、源頼朝の命により、
三浦氏第4代・三浦義明追善の為に建立されています。

三浦氏は、頼朝が平家打倒の挙兵をした際に
頼朝方に付ますが、畠山重忠軍に衣笠城が
攻められ、城に残った義明が戦死しています。

山門をくぐると、本堂の前に頼朝お手植えの躑躅がありました。


撮影: 2012年10月

満昌寺の奥には御霊神社があります。
御霊神社には、三浦義明像と伝わる座像があります。


撮影: 2012年10月

三浦義明は1180年(治承4年)に、源頼朝が平家打倒の
揚げをした際に、次男・義澄と共に頼朝に加担します。
その際に当時、頼朝に組していなかった畠山重忠と、
衣笠城を舞台に合戦に及び、戦死しています。


(現地案内板より)

山の上の神社へと続く石段が鳥居の奥に見えています。


撮影: 2012年10月

この石段を上った所に、御霊神社の社殿がありました。
社殿の扉は閉ざされていましたが、ここに先ほどの
三浦義明座像が収められているのでしょうか。


撮影: 2012年10月

社殿からは衣笠の街並みを眺めることが出来ました。
ここには三浦義明のものと伝わるお墓があります。


撮影: 2012年10月

中央に宝篋印塔、その右に五輪塔、左に板碑が並んでいます。
綺麗な状態に保たれていて、大切に弔われている事が分かります。
宝篋印塔が三浦義明の供養塔、五輪塔が妻の供養との事です。

満昌寺から更に東に向かい、交通量の多い
県道を渡り南側に行くと清雲寺がありました。


撮影: 2012年10月

三浦氏第三代の義継が1104年(長治元年)に建立したそうです。
小高い丘の上に建つ清雲寺の山門越しに眺める本堂です。


撮影: 2012年10月

清雲寺のサイトによると、ここには三浦為通、為継、善継の
三代の廟所があるとの事ですが、見逃してしまいました。
ちなみに、三浦為通が初代、為継が二代ですが、
善継については、詳しい事は分りませんでした。

清雲寺からは再び県道を渡り、北側に向かいます。
県道を渡った住宅地の中に、薬王寺旧跡があります。
その入り口にある薬王寺と記された小さな古い石碑です。


撮影: 2012年10月

薬王寺は1212年(建暦2年)に鎌倉幕府の侍所別当の和田義盛が
父・義宗や叔父の義澄の菩提を弔う為に建立したそうです。
しかし、1876年(明治9年)頃に廃寺になっています。

住宅街の中に三浦氏五代・義澄の廟所がありました。
この廟所も綺麗に整備されていました。


撮影: 2012年10月

三浦義澄は、衣笠城合戦で父・三浦義明を失ったのち、
頼朝と合流し、その後の鎌倉幕府の創立に貢献します。
鎌倉幕府では御家人となり宿老の一人となりました。

更に東に向かい、再度南側に向かいました。
ここに腹切り松公園があります。


撮影: 2012年10月

衣笠城合戦で城に残った三浦義明はここで切腹したと伝わります。

腹切り松公園から東に700m程行った所に、御霊神社がありました。
久里浜観光協会のサイトによると、御霊神社の創建は
1151年(仁平元年)で、祭神は鎌倉景政です。


撮影: 2012年10月

鎌倉景政は、後三年の役で奥州征伐に出征しています。
後に御家人となった大庭氏の祖にあたる人です。

この後、三浦氏にゆかりのある相模佐原城、怒田城を訪れました。

相模佐原城の登城記はこちらです。
怒田城の登城記はこちらです。

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