岐阜
Gifu, Gifu


岐阜は、岐阜県の中南部に位置し、
人口39万人で岐阜県の県庁所在地です。

金華山の麓を長良川が流れ、その麓に発達した街です。

ここは、以前は井之口(いのくち)という名前でしたが、
1567年(永禄10年)に、織田信長が斉藤龍興を攻め落とし、
稲葉山城を岐阜城に井之口を岐阜へと改名しています。

信長は岐阜城を本拠としている時に「天下布武」を
旗頭に、全国制覇を目指していたと言われています。

個人的には岐阜は戦後に繊維の街として
発達していたという印象がありました。

中学生の頃、当時の岐阜は既に人口40万人を有していて、
住んでいた岡崎市の人口20万人に比べてほぼ倍の規模でした。
この記事を書くにあたって調べてみると、岐阜市の人口はその後
停滞し、現在は39万人程、一方岡崎市は人口増加が続き、
38万人とほぼ同じになっていて、驚きました。

岐阜城を訪れた際に、岐阜の古い町並みなどを
散策しましたので、その様子を紹介ます。


岐阜城
Apr. 12, '26


加納城



川原町
Apr. 18, '26


崇福寺
NEW ! Apr. 24, '26

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川原町

岐阜城の散策を終え、金華山の麓の岐阜公園から
西側に行ってみました。

岐阜城の登城記はこちらです。


撮影: 2012年9月

信長が岐阜城を本拠地とした時から、楽市楽座の
制を敷き、自由な商業活動を促したと伝わっています。
この辺りは、その頃から栄えていた事と思います。

岐阜の街並みを抜け小さな川を抜けると、
古い町並みが現れました。


撮影: 2012年9月

この建物は野々垣家住宅土蔵というそうです。
この手前には、結婚式場もありました。

野々垣家住宅土蔵の路地を抜け、
川原町の表通りとの角の様子です。


撮影: 2012年9月

黒い板張りの土蔵が何棟も続き、
野々垣家住宅土蔵はとても立派でした。

横路から、川原町を通るの表通りに出ました。
長良川の南側に沿って、南西から北東に走っています。


撮影: 2012年9月

川原町の事は、良く知らずに訪れたのですが、
この通りの光景には驚きました。


撮影: 2012年9月

古い町家や蔵造りの建物が通りの両側に並んでいます。
電柱の地中化も図られ、タイムトリップしたような光景でした。


撮影: 2012年9月

こうした古い町並みは重要伝統的建造物群保存地域に
指定されることが多いのですが、この通りは
その指定を受けてはいないようです。


撮影: 2012年9月

岐阜の中心街も、第二次大戦中に空襲を受け
焼けてしまったそうですが、川原町は空襲を免れ、
この様な古い町並みが残ったそうです。

古い赤い郵便ポストも絵になる光景でした。


撮影: 2012年9月

表通りから、黒壁の建物に挟まれた細い横道に入りました。


撮影: 2012年9月

こうした細い横路は、古い町並みで見かけますが、
異世界へ誘う入口のような感じがして
とてもワクワクします。

こうした細道の一つを愛知県の足助で見かけました。
足助の散策記はこちらです。

この細い路地を抜けると、一段低くなった広場に出ました。
広場に面した建物は、石垣の上に建ち並んでいます。
その上に建つ蔵の様子も趣がありました。


撮影: 2012年9月

この建物の前にある広場です。
広場の向こうに金華山が聳えています。
その山頂の岐阜城天守閣が見えていました。


撮影: 2012年9月

川原町の表通りに戻り、北東に向かいました。
通りには新しい建物も目につくようになりました。


撮影: 2012年9月

川原町の出口に近い辺りで、櫓のような建物がありました。
この様な建物は、大垣や関でも見かけています。


撮影: 2012年9月

上の写真では分かりにくいですが、櫓のような建物は
長良川の畔に建ち、すぐ横に鵜飼の乗り場もありました。


撮影: 2012年9月

この場所は川湊だったところと思います。
船の航行用の灯台だったのでしょうか。

櫓風の建物は、長良川に架かる長良橋の袂にあります。
長良橋の下をくぐると、小さな公園があり、
そこに斉藤道三公墓の碑が建っていました。

斉藤道三は、以前は、一代で油売りから身を起し、
ついには美濃一国を奪ったとされています。


撮影: 2012年9月

司馬遼太郎の「国盗り物語」などでその一生が描かれていますが、最近の
研究では道三の父・長井新左衛門尉との2代にわたる国盗りだったようです。
斉藤道三が美濃を手中に収めたのは1550年(天文19年)の頃の様です。
しかし、1556年(弘治2年)に息子の斉藤義龍に攻められ命を落とします。

斉藤道三の亡骸は、長良川近くで埋められたそうですが、
川の流れが変わり、長良川北側の「道三塚」に
墓が作られたと言われています。

この碑の近くには、芭蕉の句碑もありました(下左写真)。
芭蕉が、鵜飼いを詠んだ句が刻まれています。

おもしろうてやがて悲しき鵜舟哉(かな) 芭蕉


撮影: 2012年9月

その右側の碑は、川端康成ゆかりの碑です。
1921年に川端康成は3度にわたり岐阜を訪れ、
3編の小説を発表していますが、その中で
鵜飼いの様子が描かれているそうです。

この後、長良橋を通り、長良川を渡りました。
長良川の北側から眺める岐阜城の様子です。


撮影: 2012年9月

長良川の戦で命を落とした斉藤道三ですが、
その12年後に娘婿の織田信長が、斉藤義龍の
子・龍興から岐阜城を奪い取っています。

岐阜城の登城記はこちらです。

斉藤道三が、最期に眺めた岐阜城(当時の稲葉山城)は
どのような眺めだった事でしょうか。

この日の長良川の流れは緩やかでした。
鮎釣りの人もいて、のどかな光景でした。
その様子を動画でも撮ってみました。

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崇福寺

川原町を訪れた後、長良橋を渡り、
長良川の北岸に向かいました。

長良橋から西に向かうと、崇福寺があります。


撮影: 2012年9月

この日は、岐阜城の麓から山頂まで上り、
その後に川原町を散策した後で、脚に疲れが出ていて、
崇福寺までかなりの距離を歩いた記憶がありますが、
地図でみると長良橋の袂から400m程の距離です。

崇福寺は14世紀末に建立された臨済宗のお寺です。
信長が岐阜に入ると、崇福寺を菩提寺に定めており、
ここには、織田信長、信忠親子の廟があります。

境内の入口から真っすぐ参道が伸びています。
その途中に総門がありました。


撮影: 2012年9月

参道の途中に鐘楼がありました。
この梵鐘は、稲葉一鉄の寄贈と伝わります。


撮影: 2012年9月

稲葉一鉄は斉藤道三に仕え、道三、その子の
義龍を支えた西美濃三人衆の一人とされています。
幼少の時に、この崇福寺で僧侶となり、後に甲斐の
恵林寺の住職となった快川紹喜に学んでいます。

山梨県の恵林寺の散策記はこちらです。

参道の左手に築地塀が見えてきました。
関白、一条兼良寄贈の土塀です。


撮影: 2012年9月

一条兼良は15世紀の室町時代の人で、
美濃の守護代だったと伝わる斉藤妙椿の
招きで岐阜に赴いているそうです。

一条兼良は中門も寄贈したそうですが、
下の写真がその門でしょうか。


撮影: 2012年9月

門には天皇家と同じ菊の紋があり、皇室
所縁の門かと思ったのですが、崇福寺の紋は、
天皇家と同じ十六葉の菊の紋という事です。

この後、本堂には行ってみました。
本堂には、戦国時代ゆかりの品が展示されています。


撮影: 2012年9月

上は、清須城の鯱瓦(左)と家康の御朱印櫃(右)です。

下が信長愛用櫓時計です。
信長の時代に、時計があったとは驚きですが、
南蛮渡来の贈り物でしょうか。


撮影: 2012年9月

そして、本堂の天井には、血天井がありました。

岐阜城は、関ヶ原の戦いの前は、
織田信長の孫・秀信が城主になっていました。
秀信は西軍に付いた為、東軍に攻められて落城します。


撮影: 2012年9月

その時、38名の将兵が戦死しています。
その時の血が付着した床板を、弔いの為
本堂の天井に張ったそうです。

この後、本堂の庭に出てみました。
本堂の向かいにある中門との間に、白砂の庭がありました。


撮影: 2012年9月

京都のお寺のような佇まいです。
この奥に、風流な小さな門がありました。


撮影: 2012年9月

ここを抜けると、本堂の裏側へと行くことが出来ます。
この奥に、織田信長・信忠公の廟がありました。


撮影: 2012年9月

1582年(天正10年)本能寺の変で、信長・信忠父子は
明智光秀に討たれましたが、信長・信忠父子の遺体は
発見されていませんでした。

本能寺の変から6日後に、信長の側室から、
崇福寺に宛て、本能寺の変を伝える書が届いたそうです。

信長・信忠父子の廟の近くには
信長・信忠の位牌安置所がありました。


撮影: 2012年9月

豪華絢爛な位牌安置所は、信長のかつての
栄華を偲ばせるように輝いていました。

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