川原町
岐阜城の散策を終え、金華山の麓の岐阜公園から
西側に行ってみました。
岐阜城の登城記はこちらです。
撮影: 2012年9月
信長が岐阜城を本拠地とした時から、楽市楽座の
制を敷き、自由な商業活動を促したと伝わっています。
この辺りは、その頃から栄えていた事と思います。
岐阜の街並みを抜け小さな川を抜けると、
古い町並みが現れました。

撮影: 2012年9月
この建物は野々垣家住宅土蔵というそうです。
この手前には、結婚式場もありました。
野々垣家住宅土蔵の路地を抜け、
川原町の表通りとの角の様子です。

撮影: 2012年9月
黒い板張りの土蔵が何棟も続き、
野々垣家住宅土蔵はとても立派でした。
横路から、川原町を通るの表通りに出ました。
長良川の南側に沿って、南西から北東に走っています。

撮影: 2012年9月
川原町の事は、良く知らずに訪れたのですが、
この通りの光景には驚きました。

撮影: 2012年9月
古い町家や蔵造りの建物が通りの両側に並んでいます。
電柱の地中化も図られ、タイムトリップしたような光景でした。

撮影: 2012年9月
こうした古い町並みは重要伝統的建造物群保存地域に
指定されることが多いのですが、この通りは
その指定を受けてはいないようです。

撮影: 2012年9月
岐阜の中心街も、第二次大戦中に空襲を受け
焼けてしまったそうですが、川原町は空襲を免れ、
この様な古い町並みが残ったそうです。
古い赤い郵便ポストも絵になる光景でした。

撮影: 2012年9月
表通りから、黒壁の建物に挟まれた細い横道に入りました。

撮影: 2012年9月
こうした細い横路は、古い町並みで見かけますが、
異世界へ誘う入口のような感じがして
とてもワクワクします。
こうした細道の一つを愛知県の足助で見かけました。
足助の散策記はこちらです。
この細い路地を抜けると、一段低くなった広場に出ました。
広場に面した建物は、石垣の上に建ち並んでいます。
その上に建つ蔵の様子も趣がありました。

撮影: 2012年9月
この建物の前にある広場です。
広場の向こうに金華山が聳えています。
その山頂の岐阜城天守閣が見えていました。

撮影: 2012年9月
川原町の表通りに戻り、北東に向かいました。
通りには新しい建物も目につくようになりました。

撮影: 2012年9月
川原町の出口に近い辺りで、櫓のような建物がありました。
この様な建物は、大垣や関でも見かけています。

撮影: 2012年9月
上の写真では分かりにくいですが、櫓のような建物は
長良川の畔に建ち、すぐ横に鵜飼の乗り場もありました。

撮影: 2012年9月
この場所は川湊だったところと思います。
船の航行用の灯台だったのでしょうか。
櫓風の建物は、長良川に架かる長良橋の袂にあります。
長良橋の下をくぐると、小さな公園があり、
そこに斉藤道三公墓の碑が建っていました。
斉藤道三は、以前は、一代で油売りから身を起し、
ついには美濃一国を奪ったとされています。

撮影: 2012年9月
司馬遼太郎の「国盗り物語」などでその一生が描かれていますが、最近の
研究では道三の父・長井新左衛門尉との2代にわたる国盗りだったようです。
斉藤道三が美濃を手中に収めたのは1550年(天文19年)の頃の様です。
しかし、1556年(弘治2年)に息子の斉藤義龍に攻められ命を落とします。
斉藤道三の亡骸は、長良川近くで埋められたそうですが、
川の流れが変わり、長良川北側の「道三塚」に
墓が作られたと言われています。
この碑の近くには、芭蕉の句碑もありました(下左写真)。
芭蕉が、鵜飼いを詠んだ句が刻まれています。
おもしろうてやがて悲しき鵜舟哉(かな) 芭蕉

撮影: 2012年9月
その右側の碑は、川端康成ゆかりの碑です。
1921年に川端康成は3度にわたり岐阜を訪れ、
3編の小説を発表していますが、その中で
鵜飼いの様子が描かれているそうです。
この後、長良橋を通り、長良川を渡りました。
長良川の北側から眺める岐阜城の様子です。

撮影: 2012年9月
長良川の戦で命を落とした斉藤道三ですが、
その12年後に娘婿の織田信長が、斉藤義龍の
子・龍興から岐阜城を奪い取っています。
岐阜城の登城記はこちらです。
斉藤道三が、最期に眺めた岐阜城(当時の稲葉山城)は
どのような眺めだった事でしょうか。
この日の長良川の流れは緩やかでした。
鮎釣りの人もいて、のどかな光景でした。
その様子を動画でも撮ってみました。
岐阜のページのTOPに戻る
崇福寺
川原町を訪れた後、長良橋を渡り、
長良川の北岸に向かいました。
長良橋から西に向かうと、崇福寺があります。

撮影: 2012年9月
この日は、岐阜城の麓から山頂まで上り、
その後に川原町を散策した後で、脚に疲れが出ていて、
崇福寺までかなりの距離を歩いた記憶がありますが、
地図でみると長良橋の袂から400m程の距離です。
崇福寺は14世紀末に建立された臨済宗のお寺です。
信長が岐阜に入ると、崇福寺を菩提寺に定めており、
ここには、織田信長、信忠親子の廟があります。
境内の入口から真っすぐ参道が伸びています。
その途中に総門がありました。

撮影: 2012年9月
参道の途中に鐘楼がありました。
この梵鐘は、稲葉一鉄の寄贈と伝わります。

撮影: 2012年9月
稲葉一鉄は斉藤道三に仕え、道三、その子の
義龍を支えた西美濃三人衆の一人とされています。
幼少の時に、この崇福寺で僧侶となり、後に甲斐の
恵林寺の住職となった快川紹喜に学んでいます。
山梨県の恵林寺の散策記はこちらです。
参道の左手に築地塀が見えてきました。
関白、一条兼良寄贈の土塀です。

撮影: 2012年9月
一条兼良は15世紀の室町時代の人で、
美濃の守護代だったと伝わる斉藤妙椿の
招きで岐阜に赴いているそうです。
一条兼良は中門も寄贈したそうですが、
下の写真がその門でしょうか。

撮影: 2012年9月
門には天皇家と同じ菊の紋があり、皇室
所縁の門かと思ったのですが、崇福寺の紋は、
天皇家と同じ十六葉の菊の紋という事です。
この後、本堂には行ってみました。
本堂には、戦国時代ゆかりの品が展示されています。

撮影: 2012年9月
上は、清須城の鯱瓦(左)と家康の御朱印櫃(右)です。
下が信長愛用櫓時計です。
信長の時代に、時計があったとは驚きですが、
南蛮渡来の贈り物でしょうか。

撮影: 2012年9月
そして、本堂の天井には、血天井がありました。
岐阜城は、関ヶ原の戦いの前は、
織田信長の孫・秀信が城主になっていました。
秀信は西軍に付いた為、東軍に攻められて落城します。

撮影: 2012年9月
その時、38名の将兵が戦死しています。
その時の血が付着した床板を、弔いの為
本堂の天井に張ったそうです。
この後、本堂の庭に出てみました。
本堂の向かいにある中門との間に、白砂の庭がありました。

撮影: 2012年9月
京都のお寺のような佇まいです。
この奥に、風流な小さな門がありました。

撮影: 2012年9月
ここを抜けると、本堂の裏側へと行くことが出来ます。
この奥に、織田信長・信忠公の廟がありました。

撮影: 2012年9月
1582年(天正10年)本能寺の変で、信長・信忠父子は
明智光秀に討たれましたが、信長・信忠父子の遺体は
発見されていませんでした。
本能寺の変から6日後に、信長の側室から、
崇福寺に宛て、本能寺の変を伝える書が届いたそうです。
信長・信忠父子の廟の近くには
信長・信忠の位牌安置所がありました。

撮影: 2012年9月
豪華絢爛な位牌安置所は、信長のかつての
栄華を偲ばせるように輝いていました。
岐阜のページのTOPに戻る
中部のページに戻る
Shane旅日記 日本編に戻る