撮影: 2022年11月
岐阜駅を通る高山本線の様子はこちらです。
岐阜は信長が楽市楽座を施行し賑わった街ですが、
このところ、岐阜の市街地は百貨店などが撤退し、
活気が失われていると聞きます。
金華山の麓の岐阜公園からは、
山頂の岐阜城が小さく見えていました。

撮影: 2012年9月
岐阜城は、もともとは13世紀に築かれた為か、
典型的な山城で、いかにも難攻不落と言った感じがします。
岐阜公園に入ると、まず銅像が目につきます。
この銅像は、幕末から明治にかけて活躍した板垣退助です。
土佐藩出身の板垣は、維新後、自由民権運動を主導し、
国会を創った男と言われているそうです。

撮影: 2012年9月
この岐阜の地に板垣退助の銅像があるのは、
1882年(明治15年)にこの地で襲撃を受けた為です。
この時発した『板垣死すとも自由は死せず』
という有名な言葉の為、この事件は良く知られていますが、
板垣は生涯で6度も襲撃事件を受けているそうです。
この先の山懐に信長居館跡がありました。

撮影: 2012年9月
この冠木門の奥に、かつて信長の居館があり、
今、その場所の発掘調査が続いています。
以前は、この門の近くに羽織を片肌脱いだ
騎乗の信長像がありましたが、2012年に
訪れた際には気が付きませんでした。

撮影: 2005年9月
冠木門をくぐり、階段を上ると居館跡に入ります。

撮影: 2012年9月
土を盛った一段高い敷地跡の間に通路が巡らされていました。

撮影: 2012年9月
この奥に、一段高い所にやや広い一角がありました。
この辺りは千畳敷下と呼ばれる区画です。

撮影: 2012年9月
更に一段高い位置に千畳敷があります。
2012年に訪れた際にはまだ発掘の途中といった感じでした。
今は発掘も進み、その当時とは様子が一辺していると思います。

撮影: 2012年9月
往時は、4階建ての金塗りの御殿が建てられていたそうです。
その位置は、千畳敷だったのでしょうか。
信長公居館跡の様子を動画でも撮ってみました。
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七曲登山道
2012年9月に岐阜城を訪れた時、麓から
山頂の天守まで歩いて上ることにしました。
岐阜城の天守に向かっては、6つほどの
ハイキングルートが設定されているようです。

このうち、金華山の西側の3つのハイキングルート、
七曲登山道、百曲登山道、馬の背登山道の
3つのハイキングルートは、当時の登城道でした。
まず、麓の信長公館跡を訪れ、その後に山頂を目指しました。
3つの登城道の内、一番南にある七曲登城道に向かいました。

撮影: 2012年9月
上の写真は、七曲登城道の入口の様子です。
ここから標高328.9mの金華山の山頂を目指しました。

撮影: 2012年9月
登城道に入り、ほぼ一定の勾配が続いていました。
しばらくすると、山頂まで1600mの表示がありました。
周囲は深い森になっています。

撮影: 2012年9月
上り始めてしばらくすると、何度か折り返しがありました。
下の写真は、3度目の折り返し地点だったと思います。

撮影: 2012年9月
上り始めて13分経ったところで、石段がありました。
この石段を上ると、七曲峠です。

撮影: 2012年9月
上右の切通を抜けると、金華山の東側に出ることが出来ます。
国土地理院の地図によると、この地点が標高170m程、
上り始めた地点が標高20m程ですから、150m上りました。
七曲峠から、階段を上るようになりました。
勾配も急になっていて、足に疲労がたまります。
9月下旬とはいえ、30℃に迫る気温の中、
大汗を掻きながら登っていきました。

撮影: 2012年9月
登城道を上り始めて20分ちょっと経った頃、
山頂まで600mの表示がありました。
既に1000m歩いた事になります。

撮影: 2012年9月
更に5分程歩くと、登城道の脇に
削平地や堀切のような地形がありました。

撮影: 2012年9月
はっきり削平地とは断定出来ませんでしたが、
これらが削平地とすると、岐阜城は山頂部に
平地が少ないので、途中の尾根部から削平地を
築いて、その場所を確保していたのかもしれません。
こうして麓から30分程で、ロープウェイを下りた
観光客の一団に出会いました。

撮影: 2012年9月
ここでやっと岐阜城の登城ルートの終点です。
この辺りから、濃尾平野が一望出来ました。

撮影: 2012年9月
階段を少し上ると、冠木門がありました。
岐阜城の伝一ノ門跡です。

撮影: 2012年9月
この先が、岐阜城の山頂部の縄張りとなります。
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山頂主郭部
さていよいよ岐阜城の天守閣へ向います。
金華山山頂までは約一時間の山登りか、
ロープウェーで行く事が出来ます。

撮影: 2005年9月
ロープウェイに乗ると、岐阜の街を眼下に
眺めながら一気に上って行きます。
ロープウェイの山頂駅に降り立ち、駅舎を
出た所で、麓からの七曲登山道と合流します。
七曲登城道の様子は こちら です。
七曲登城道と合流し、馬の背の細い道を登っていきます。
この先に、一ノ門がありました。

撮影: 2012年9月
この門自体は、観光用に作られたものということですが、
発掘調査も行われ、当時もここに門があったようです。
一ノ門をくぐり、更に尾根に沿って道が続いています。
山の上の狭い土地で、城郭がどのように築かれて
いたのか、それを信長がどのように攻略したのか、
山道を登りながら想像を巡らせました。

撮影: 2012年9月
この先には、上格子門跡や、馬場跡がありました。
上格子門跡は切り立った岩場にあり、その岩の
上には七間櫓が建っていたそうです。
この先には、堀切がありました。

撮影: 2012年9月
岐阜城天守閣への道は幾つかに枝分かれしていて、
そのうちの一つが、堀切の上にも続いています。
堀切を抜け、急な石段の道を上りました。

撮影: 2012年9月
急な石段を上っていくと、二ノ門がありました。
二ノ門は、二の丸の下に位置していた門だそうです。
関ヶ原の戦いの前に岐阜城が東軍によって攻められた際、
この門内にあった煙硝蔵に火がついて爆発を起こしたそうです。

撮影: 2012年9月
二ノ門の左手には、秀吉の馬印になっている
「千成ひょうたん」発祥の地とされる岩がありました。

撮影: 2005年9月
1567年(永禄10年)、信長が斉藤龍興を攻略した際、
僅かな手勢で攻め上がった秀吉が、この付近にあった
建物に火を放った時、この岩に乗って腰につけていた
瓢箪を振り回し、それを味方に知らせたそうです。
二ノ門には閻魔堂と題目塚がありました。

撮影: 2012年9月
題目塚は、岐阜城で行われた幾多の戦での
戦死者を弔うために、建てられたそうです。
碑には「南妙法蓮華経」が刻まれています。
「南妙法蓮華経」は日蓮宗のお題目で斉藤道三も
織田信長も日蓮宗の信者だったそうです。
この先で、道が二手に分かれていました。
左手の石段を上ると天守閣へ、右手の
道は天守閣下へと通じています。

撮影: 2012年9月
右手の道を行くと、天守閣の下に井戸がありました。
山頂部の城郭の命綱となる水源です。

撮影: 2012年9月
岐阜城の山頂部には全部で4か所の井戸があったそうです。
井戸を眺めた後、再び先ほどの分岐に戻り、
石段を上って天守を目指しました。
しばらく歩いていくといよいよ
天守閣が間近に見えてきました。

撮影: 2012年9月
1956年(昭和31年)に建てられた模擬天守閣です。
信長が建てた天守閣は、関が原の戦いで廃城と
なった後、岐阜市内の加納城に移築されたそうです。
この伝承に基づき、加納城の古絵図を参考に
建てられたのが今の天守閣だそうです。
この日は初秋のいい天気で、お城の上空に
澄み渡るような青空が広がっていました。

撮影: 2005年9月
岐阜城の天守閣の入口です。
入口は、質素な感じがします。

撮影: 2012年9月
天守閣には、信長の木造がありました。

撮影: 2012年9月
信長の死後すぐに造られ、生前の信長の容姿に近いと
される大徳寺総見院の信長像のレプリカという事です。
そして天守閣からの眺めです。
天守閣からは長良川の流れる
岐阜の街が一望出来ました。

撮影: 2012年9月
斉藤道三や織田信長もこうして
我が領土や城下町を眺めたことでしょう。
長良川の北側、天守閣の甍の先の小さな山は
斉藤道三が息子・斉藤義龍に攻められ
最期の地となった鷺山城跡です。
岐阜城の南から西、そして北側の
眺めを動画で撮ってみました。
西には遠く伊吹山が霞んで見えています。
伊吹山の向こうは琵琶湖が横たわり、
その向こうは京都の街がある筈です。
きっと信長は何度もここから西の景色を眺め
「天下布武」の夢を抱いていたことでしょう。
下の写真は、長良川の上流方面です。

撮影: 2012年9月
初秋とはいえ強い日差しで、街並みや
近くの山々が輝いているようでした。
この日は逆光ではっきりとは見えなかったのですが、
南の方角は、遠く名古屋の高層ビルも見えるそうです。
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