愛知電気鉄道・西尾線跡
Former Aichi Electric Railway
Nishio Abandoned Line





撮影: 2012年4月



現在の名古屋鉄道西尾線は、名古屋本線の新安城から南下し、
南安城、西尾を経由し、蒲郡線の吉良吉田に至る路線です。

今の西尾線は、1944年(昭和19年)に
名古屋鉄道が碧海電気鉄道の路線を併合し、
1948年(昭和23年)に西尾線と改称したものです。

しかし、戦前には東海道本線の岡崎駅と西尾を
結ぶ路線があり、こちらを西尾線と呼んでいました。

この路線は、不急不要路線とされ、
1943年(昭和18年)に運転休止になっています。


この旧西尾線の線路のうち、岡崎駅前から福岡町までは
1951年(昭和26年)に名古屋鉄道福岡線として復活し、
岡崎市内線の電車が乗り入れていました。

この岡崎市内線と福岡線も1962年(昭和37年)には
廃止となってしまいますが、岡崎駅前と福岡町間の
廃線跡はバス専用道として使われていました。




岡崎駅前 - 福岡町
(Okazaki Ekimae - Fukuoka Cho)
Feb. 13, '16


福岡町 - 西尾
(Fukuoka Cho - Nishio)
NEW ! June 10, '25




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岡崎駅前 - 福岡町
(Okazaki Ekimae - Fukuoka Cho)



1943年(昭和18年)に運転休止となった愛知電気鉄道
西尾線のうち、岡崎駅前から南に2km程行った
福岡町までは1951年(昭和26年)に復活し、
名古屋鉄道(以下、名鉄)福岡線になっています。

この復活によって岡崎市内線と直通し、大樹寺まで
運行されるようになりましたが、その福岡線も僅か
9年後の1962年に廃止になってしまいました。




その福岡線の廃線跡はバス専用道路となり
名鉄バスが福岡町から岡崎の市街地を縦貫し
大樹寺など市の北部を結ぶ路線を運行しています。

この区間は、子供の頃からとても馴染のあるところです。

2012年4月に一度散策して写真を撮りましたが、
2016年4月以降にはバス専用道路を通るバスの運行が
無くなるというので、2016年2月に再度訪れてみました。

4月以降は、上図の青い破線で示した
一般道を運行する事になっています。


JR岡崎駅東口の様子です。


撮影: 2012年4月

2000年頃から区画整理事業が始められ、
今では以前の面影は全くありません。

以前は、福岡線の廃線跡が岡崎駅のすぐ近くまで続いていました。
また東口の南側には日本通運の建物があったのですが
その建物は西尾線時代の岡崎新駅の駅舎だったそうです。

以前は、古い倉庫が並び、その間を福岡町行の
バスが走っていた辺りも今は、面影がありません。


撮影: 2012年4月

福岡線の跡を走る名鉄バスは、この区間は
東側の県道を迂回して走っています。

福岡町行のバスは、南に100m程行ったところに
名鉄バスの待機場があり、その前の道を通っています。


撮影: 2012年4月

バスが向かう先で、すぐにJR東海道本線に突き当たり、
左に折れて、福岡町へと南下しています。

ここからは、名鉄バス専用道路になっています。
左に曲がった先、東海道本線と並走する所です。


撮影: 2016年2月

この辺りは、当時の福岡線の廃線跡になっています。
岡崎駅から500mの所に柱町のバス停がありました。
このバス停は、福岡線時代に停留場があったところです。





西尾線時代は、鉄道路線だった為、新岡崎を出ると
福岡町(当時:土呂)まで駅はありませんでしたが、
福岡線として復活した際には、路面電車が運行された為、
小まめに停留場が設けられていました。

柱町のバス停から南を眺めた様子です。


撮影: 2012年4月

この先も名鉄バスの専用線が真っ直ぐに伸びています。

写真左手に小型トラックが停車しているのが見えますが、
以前は東海道本線から停車中のトラックの手前を通り
その奥にあった日清紡績の工場まで引込線が続いていました。

福岡線が現役の頃は、ここに
クロッシングが存在していた事になります。
岡崎駅での貨物取り扱いも、何十年も前に廃止に
なっていますが貨物の入れ替えと、路面電車が
行き交う姿を想像するのも難しくなっています。

柱町から更に南に下ったあたりの様子です。


撮影: 2016年2月

この辺りは、バス専用道は住宅地の間を走ります。
住宅が背中を向けて建っているのが
廃線跡である事を示しています。


撮影: 2012年4月

この辺りは、バスが来ると逃げ場がないところで、
また、子供の頃は、今よりもバスの本数が多く
この道は、決して近寄ってはならないところでした。

この住宅密集地の先に、東若松のバス停があります。


撮影: 2012年4月

ここも福岡線が復活した際に停留所が置かれました。





バス専用道になっても、道幅が狭く、バス同士の
すれ違いが出来ないので、当時の停留場跡は
バスの行き来に役だっています。

実際、バス停で反対方向からのバスを
待つ事がしばしばあります。


東若松から南を眺めた様子です。


撮影: 2012年4月

バス専用道路の両側に建ち込めていた住宅は
ここで尽き、ここからは県道の築堤脇を
緩やかな勾配で下って行きます。

上の写真右手にはJR東海の変電所があります。


バス専用道路は、バス以外の人や車等、
一般の通行は禁止されていますが、ここから先は
しばらくの間、交差する道も退避する場所も無く、
特に一般車両の通行が制限されている所です。

東若松のバス停から100m程南に行ったところの
南公園入口の信号脇には、バス専用道路を
跨ぐ小さな橋が架かっています。

岡崎市の南公園の散策記は
こちらです。


その橋の上からの眺めです。
廃線跡は一段低いところを通っているのが判ります。


撮影: 2012年4月

南側は低地を行く福岡線の廃線跡が、築堤を行く
東海道本線をアンダークロスしていく様子も一望出来ます。

丁度バスが、その橋の下を通って行きました。
当時の路面電車を彷彿とさせる光景でした。


撮影: 2012年4月

この先、アンダークロスしている様子が
良く見える場所へと行ってみました。

田圃のあぜ道の様な細道が交差する場所です。


撮影: 2016年2月

この光景も路面電車時代の福岡線の
様子を彷彿とさえる場所でした。

こちらは築堤の西側から眺めた様子です。


撮影: 2012年4月

ここは、ブルートレイン華やかだった40年以上前、
東京に向かって上る姿を撮りに良く来ていた所です。

このすぐ南側に、西若松のバス停があります。


撮影: 2012年4月

僅か数年前まで、福岡線時代の木造の
待合室があり、その脇に咲く桜の花が
とても綺麗な場所でした。





上の写真左の小さなスーパーも僕が
小学校の頃から続いていたお店ですが、
今ではもうありません。


西若松の南方向を写した様子です。


撮影: 2012年4月

低地が広がるこの辺りは、
以前は田圃が広がっていましたが、
次第次第に住宅が増えてきています。

この先に見える住宅地の様子です。


撮影: 2012年4月

他の道と交差するところでは、
バス専用道路側に一旦停止の標識があります。

バス通りの脇に停まっている車があります。
以前は、バス専用道路を歩いている時にバスが
通りかかると、運転手さんに怒られたものですが、
今は時折車が走っているのも見かけます。

福岡町へと向かうバスの様子です。


撮影: 2012年4月

この先の橋は、築堤を行く県道です。
通称、西尾街道と呼ばれています。

その西尾街道の橋の上から福岡線の
廃線跡を走るバスの様子を眺めてみました。


撮影: 2012年4月

バス専用道路の右手には広大な田圃が広がっていました。
岡崎駅南側に広がっている広大な田圃です。


撮影: 2012年4月

いま、ここに大学病院やショッピングモールを
誘致し、住宅地を建設する計画があります。

岡崎市の土地区画整理計画は こちらです。


この区画整理計画の南の端が福岡線の
廃線跡に掛かり、2016年3月末でここを
走るバスの運行が終わってしまいます。


撮影: 2016年2月

その工事がもう始まっていました。
本当に境界の僅かばかりが掛かっている様なので
なんとかすれば、バスの運行も従来通りに
出来たようにも思います...

バス専用道路を管理している名鉄にとっては、
費用削減の思惑もあったのでしょうか。

このすぐ先に福岡町のバス停がありました。





西尾線時代の土呂駅の駅構内を使い
バスの転回場が設けられています。


撮影: 写真左 2016年2月    写真右 2012年4月

バスは、ここで時間調節を行う為
長い時間停車しています。


撮影: 2016年2月

現在、日中は20分毎の運行ですが、
岡崎駅方面からのバスが到着した後に
しばらくして待機していたバスが
発車するダイヤになっているようです。

日中、渋滞の激しい岡崎市内の交通状況を考慮し
折り返しのバスに遅れが生じない為の施策と思います。

バス停から通りへの様子です。


撮影: 2016年2月

駐輪場と駐車場に囲われた狭い通路を通って
バス乗り場に向かう様になってます。

2016年4月以降、福岡町行のバスは、東海道本線の
東側を並走する県道を走り、今の福岡町バス停南側の
道路からアクセスしてくる事になっています。


撮影: 2016年2月

この通りです。
この通りを東に向かうと戦国時代に
一向宗の拠点になった土呂の集落があります。

土呂界隈の散策記は こちらです。
土呂城の登城記は こちらです。



今は駐輪場のフェンスが張られていますが、
これからこのフェンスが取り外され、
駐輪場はどこかに移動するのでしょうか。

福岡町のバス停の南には、更に
西尾線の廃線跡が続いていました。


撮影: 2016年2月


福岡町行のバスは、上記の様に2016年
4月以降は廃線跡のバス専用道路を走らず、
一般道を大回りして走る事になっています。

岡崎駅南の区画整理工事が終了すると
今度は、その中のメイン通りを走って
岡崎駅に向かう予定になっているそうです。


バスの運行ルートも気になりますが
その際、福岡線の廃線跡はどのように
なってしまうのか、気に掛かります。

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福岡町 - 西尾
(Fukuoka Cho - Nishio)

この福岡町までは、廃線跡がバス専用道路になっているので
問題はないのですが、福岡町以南では、廃線跡は
ぷっつりと途絶えてしまいます。


撮影: 2016年2月

福岡町バス停から南に延びる細長い空き地が西尾鉄道の
廃線跡と思いますが、立ち入り禁止になっていました。

地図で見ると、福岡町内の廃線跡は福岡町の
バス停から南西にまっずぐ延びていたようです。


下の写真は上の地図のB地点の様子です。


撮影: 2012年4月

西尾鉄道は福岡の集落の端で、占部川を渡っていました。
下の写真(上の地図のC地点)がその個所と思います。


撮影: 2012年4月

占部川を渡ると、のどかな田圃が広がり、国定の集落に入りました。


撮影: 2012年4月

古い民家が残る集落ですが、この辺りに占部駅があったと思います。


撮影: 2012年4月

国定の集落を抜けると田圃が広がり、羽角山が見えてきました。


撮影: 2012年4月

のどかな田園風景です。
廃線から70年が経ち、この田園風景にも
西尾鉄道の痕跡は残っていませんでした。

国定から中島にかけては、地図を眺めていても、
どこに線路が敷かれていたのかよく判りませんでした。

新幹線をくぐり、中島の街に入りました。
その途中で見かけた菜の花畑です。


撮影: 2012年4月

もう桜は、ほとんど散ってしまっていしたが、
菜の花はとても綺麗でした。

中島の町も西尾鉄道の痕跡は見当たりません。
六ッ美南部小学校前の様子です。


撮影: 2012年4月

調べたところでは、この先の中島バス停が当時の駅跡とのことです。


撮影: 2012年4月

戦時中に線路が剥されてしまった西尾鉄道ですが、
この中島駅跡からほど近いところに大手自動車部品
メーカーの工場があり、1万人近い人が働いているそうです。

鉄道が残っていれば、通勤時に渋滞も減った事でしょう。
また今では、岡崎から愛知環状鉄道がトヨタ自動車のある
三河豊田まで結んでいるので、人の行き来にも役立ったと思います。

繰り言ですが、この線路が残っていれば、
豊橋 - 名古屋間の新幹線の駅も、三河安城ではなく
西尾鉄道との交差部に出来ていたかも知れません。

中島の町を抜けると、岡崎市から西尾市へと入ります。
田圃が広がり、その先に丘陵地が広がるのどかな眺めとなりました。


撮影: 2012年4月

この中島の南からは廃線跡が道路になっているところが多く、
地図でも路線跡を追う事が出来ます。

西尾市に入ったところに三和小学校がありますが、
その校庭の南端が、三江島駅跡だそうです。


撮影: 2012年4月

校庭の南を走る細い農道が廃線跡になっています。
ここを辿っていくと、この先で安藤川に辿り着きました。
ここには、コンクリート製の橋台が残されていました。


撮影: 2012年4月

驚く事に、橋台は複線用に造られていました。
西尾鉄道を敷いた人は先見の明がありすぎたのでしょうか。

安藤川を越えると、菜の花畑が広がりました。


撮影: 2012年4月

緩やかにカーブする道路が廃線跡です。
遠くに八ッ面山が見えてきました。


撮影: 2012年4月

この八ッ面山の麓には、戦国時代に荒川城があったところです。
西尾鉄道の廃線跡巡りが終わったら、ここを訪れてみる予定です。

八ッ面山の散策記は こちらです。
荒川城の登城記は こちらです。


道路際に、紫の綺麗な花が咲いていました。


撮影: 2012年4月

安藤川の鉄橋跡を過ぎ、畑が広がる景色の中、
八ッ面山を眺めながら西尾鉄道の廃線跡を
走っていると、国道23号線の立派な築堤が現れました。

そこを抜けると、矢作古川ですが、ここは土手に沿って
竹藪が密集しており、線路跡はわかりませんでした。

下流に回り道して、矢作古川を渡ります。


撮影: 2012年4月

緩やかな矢作古川の流れです。
上流に架かる青い水道管の橋の辺りが
西尾鉄道の橋梁跡と思います。

八ッ面山もすぐ近くに見えるようになりました。


撮影: 2012年4月

ブドウの花でしょうか。
白い綺麗な花が咲いていました。

先ほどの青い水道管の橋の袂まで戻ります。
その先に、西尾鉄道の築堤跡が残っていました。


撮影: 2012年4月

この築堤の先は、八ッ面山の麓に広がる
集落を廃線跡の道路が続いていました。


撮影: 2012年4月

この辺りが八ッ面駅跡だと思います。
集落を抜け、田圃の中を廃線跡の道が続いています。


撮影: 2012年4月

低い築堤が緩やかにカーブする様はこの築堤の上にレールが
敷かれていた様子を容易に思い浮かべる事が出来ました。

この先で、西尾の市街地が広がるようになりました。
廃線跡は、道路となって住宅地の間に残っています。
その道を辿ると、立派な西尾市民病院が見えてきました。


撮影: 2012年4月

西尾市民病院前は、当時の久麻久駅跡です。
当時の面影は全く残されていませんでした。

ここから西尾鉄道廃線跡の道はやや南に
方向を変えて西尾口駅を目指します。


撮影: 2012年4月

この路が西尾鉄道の廃線跡ですが、いまは
すっかり生活道路として機能しています。

1km程、この道を走っていくと名鉄西尾線の
西尾口駅に到着しました。


撮影: 2012年4月

1911年に、当時の西三軌道が岡崎新(今の岡崎駅)と
西尾を結ぶ軽便鉄道を開業した時には、西尾口には
駅はなく、今の名鉄西尾線の西側を通っていました。

1928年に今の名鉄西尾線のルートに碧海電気鉄道が
今村(現・新安城)と吉良吉田とを結ぶ「西尾線」を
開業させると、西尾鉄道の路線も、西尾口から西尾まで
碧海電気鉄道の線路に乗り入れるようになったようです。

この日の西尾鉄道廃線跡を辿る旅は
この西尾口駅で一旦終了です。

西尾口駅は市街地にある駅ですが、乗り降りする
人が少ないのかとてもひっそりとしていました。

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