浪岡城は、南北朝時代に後醍醐天皇を援けた
北畠親房、顕家の子孫が居住したお城だそうです。
築かれたのは南北朝時代から100年以上も時代の下った、
応仁の乱の頃の1467年から1477年頃とされています。
同じく南朝側に立っていた根城南部氏の庇護の下で
この浪岡に入り、築城したと考えられているそうです。
根城の登城記はこちらです。
その後、浪岡北畠氏は津軽中部を支配していましたが、
1562年(永禄5年)に、所領を巡る親族間の争いが起き、
その後衰退していきます。
1578年(天正6年)に大浦(津軽)為信によって浪岡城は
落城し、時の御所(城主)の北畠顕村は自決しています。
浪岡城は8つの曲輪で構成されていたようです。
浪岡城は浪岡川の北側の微高地に築かれています。
本丸にあたる内館は、南は浪岡川に面し、
その他のは、北館、東館、西館そして
猿楽館で囲われています。
曲輪と曲輪の間には幅約20mの堀が築かれています。
2010年12月に雪の浪岡城を訪れました。
その時の様子を紹介します。
J奥羽本線浪岡駅から東に約2km。 徒歩約25分です。
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浪岡城を訪れたのは12月。
しかも、訪れた日には寒波が接近していて
朝から雪模様でした。
雪の中、浪岡駅から浪岡城を目指します。
街中には人影もなく、寒い中歩いていきます。
まずは、浪岡城の手前にある浪岡八幡宮に向かいました。
793年(延暦12年)に坂上田村麻呂が蝦夷征伐で
この地を訪れた際に創建した神社です。
室町時代には浪岡城の城主・浪岡北畠氏の庇護を受け
江戸時代には津軽藩主・津軽氏の祈願所だったそうです。
浪岡八幡宮から浪岡城に向かいました。
近くの小さな交差点に浪岡城の城址碑もありました。
この辺りは既に浪岡城の城域になっていたようですが、
浪岡城への入り口の場所が、判っていなかったので
城址碑の角を右に曲がってみました。
この辺りは住宅地の端にあり、
その先に耕地が広がっていました。
折からの雪で一面の雪景色になっていて、
視界もあまりよくありません。
しかし、耕作地の先に城址があるようなので、
そちらに向かってみました。
浪岡神社から比較的広い道から離れ、
田圃の畦道程の道を歩いていきました。
雪の降り方が激しくなり、心細くなってきましたが、
空堀の様な地形と続いて雪に埋もれた平原が現れました。
この地形は郭に違いありません。
後で、縄張図と照らし合わせてみると
浪岡城の一番西にあった検校館だと思います。
この辺りから、東側を眺めた様子です。
浪岡川の堤防の左側に微高地がありますが
これが浪岡城の西館郭の南の端にあたります。
こちらの方向には民家はなく、これ以上
雪が酷く降って視界が利かなくなると、
遭難してしまいそうな不安がよぎりました。
検校館と西館の間の空堀を抜け、
西館の曲輪にとりつきました。
西館は長さ150m近く、幅も100mは
ありそうな大きな曲輪でした。
雪も降りしきり、、郭の周囲全ては歩き回らずに、
西館の南側、浪岡川に面した切岸に沿って歩きました。
郭の形は不定形で、自然の地形
そのまま生かしているようです。
この西館の南側の切岸に沿って東に向かいます。
浪岡城の本丸にあたる内館との間に広い空堀があり、
その空堀の中央に土塁が築かれていました。
雪景色でも、素晴らしい空堀の様子とわかります。
空堀の中央の土塁は連絡通路に用いられていたと思います。
敵もこの土塁を伝わって来てしまうように思いますが
その際には一列になった敵を郭から挟み撃ちするのでしょう。
土塁に架かる橋を渡って内館に向かいました。
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西館と内館の間の土塁に架かる橋を渡り、
西館から内館に向かいました。
ここでまた雪が激しくなってきました。
激しく降る雪で、写真を撮るものもやっとの状態でした。
城主の居住区だった内館は、周囲を西館・北館
そして東館の郭で護られる位置になっています。
この内館に碑が立っていました。
1880年(明治13年)に立てられた北畠古城の碑です。
浪岡城の城址だった北畠氏の紹介や浪岡における
北畠氏の盛衰が刻まれているようです。
内館から、西館と北館との間の 空堀を眺めた様子です。
空堀の中の土塁に架かる橋が
すぐ近くに見えていました。
この土塁を通り、北館に向かいました。
当時の浪岡城の様子が伝わるような光景でした。
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内館から空堀の中の土塁を通り北館に向かいました。
北館の入り口にも木橋が架かっています。
北館に入ると通路が木の柵で仕切られていました。
案内板の説明では、16世紀前半の北館は、
規則的に区画が区切られ、大きな建物と数棟の
小さな建物、そして井戸が一つの区画にあったそうです。
大きな建物は地面に柱を立てた掘立柱建物、
小さな建物は竪穴式だったそうです。
北館は東西約200m、南北約100mの差し渡しがあり
浪岡城では最も大きな曲輪です。
雪原の中に建物や井戸の跡の柵が点々とありました。
雪の中で、ゆっくり散策は出来ませんでしたが
それでも、浪岡城址の散策を始めてから
30分は経っています。
さすがに身体も冷え切ってきました。
北館から望む内館の様子です。
その左手に進むと、内館と猿楽館との間の
広い空堀を見ることが出来ました。
この空堀は、自然の地形そのままの様で
荒涼とした眺めでした。
そして、北館の東の端から眺めた景色です。
北館にある東館との間にも広い幅の空堀があり、
そこにはいくつもの土塁が築かれています。
木橋もいくつか架かっているのが見えました。
この北館には浪岡城の案内表示や縄張り図があり、
ここで初めて浪岡城の全容を知ることが出来ました。
それによると、東館へ行くには、一旦北館の北側に出て、
空堀に築かれた土塁を辿って行かなければなりません。
堀の向こうには車も通れる舗装道があり、
そこへと向かう出入り口も2か所程ありました。
その道に出てみると、浪岡城と
大きく書かれた看板も出ています。
浪岡神社の前の道を真っすぐ東に向かえば、
この看板が見え、整備され案内板も整った
北館から散策する事が出来たので、遭難の
心配は無かったと思います。
でも、浪岡城の全容が分からない状態で
雪の降りしきる中、城址を散策していた時は
まさに探検という感じで、色々な感慨を味わう
事が出来たので、それも良かったと思います。
こちらは北館の北側の空堀の様子です。
この空堀の真ん中に築かれた土塁の通路を
辿っていくと東館に向かう事が出来ます。
先ほど、北館から眺めた東館との間の空堀です。
土塁が何本も走り、東館へと導いてくれました。
北館から、空堀の中の土塁を伝って
東館に向かいました。
東館は南北、東西それぞれ70~80m程の広さです。
東館の曲輪は、すっかり雪に覆われていました。
東館の南には案内所の建物がありました。
ここには史跡の名称板もあるようです。
この右手に段丘の下に降りる虎口がありました。
この景色を見ると、殆ど自然の地形のままに思えます。
この右手に猿楽館の曲輪がある筈ですが、
枯草が生い茂っていて、立ち入りませんでした。
一段下がったところから東館を振り返った様子です。
虎口の様子がよくわかります。
左手は猿楽館の下の帯曲輪と思います。
東館から下ったところには碑が立っていました。
碑には「行岳公園」と記されていますが、
行岳は浪岡の古い地名だそうです。
ここから左を眺めた様子です。
左の段丘の上が東館です。
段丘の先に道路が走り、その向こうには
民家が広がっていますが、浪岡城の城域は
その先にも広がっていたような気がします。
東館に戻って、先ほど眺めた通りまで出てみました。
猿楽館の曲輪には足を運ばなかったのですが、
これで浪岡城の散策は終わりです。
雪も途中で降り止み、一通り散策出来て良かったです。
浪岡駅までの道を歩くうちに冷え切った身体も
温かさが戻ってきました。