根城は、南北朝時代の1333年(元弘3年)に
南朝方の武将・北畠顕家に従い陸奥に赴いた
甲斐の地頭・南部師行がその翌年に築いたお城です。
八戸市街の西側、馬淵川の南岸に建っています。
根城は戦国時代を通じて存続し、1590年(天正18年)の
小田原征伐の際に三戸城主・南部信直は秀吉から本領を
安堵され、根城も三戸・南部氏の支配下に置かれたようです。
根城は本丸・中館・東善寺・岡前舘・沢里館の
5つの曲輪からなっています。
現在は、本丸・中館そして東善寺の3つの曲輪が
史跡として整備されていますが、岡前舘と
沢里館は市街地化されているようです。
2010年12月、冬の根城を訪れ、東善寺・中館
そして本丸を中心に散策してきました。
その際の様子を紹介します。
JR八戸駅から中心街行バスで根城(博物館前)下車。
乗車時間は約15分。運賃は200円です。
運行頻度は平日2本/時間、休日は毎時1本です。
八戸駅から中心街行のバスは田面木経由と
根城大橋経由があり、田面木経由が最寄りの
根城バス停に到着します。
根城大橋経由のバスでは、報恩会館根城前下車。
ここから徒歩約10分です。
八戸駅 - 根城間のバスの情報はこちらです。
【根城登城記】
2010年12月23日、東京からの新幹線を八戸で下車。
ここからバスに乗って根城に向かいました。
根城に着いたのは午前11時頃でした。
根城は史跡公園になっていて、その脇に建つ八戸市の
博物館の前には南部師行公の騎馬像がありました。
南部師行は根城の築城城主でした。
根城を築いた翌年には、北朝との戦いの為多賀城に入り、
その翌年には京に向かい1337年(延元2年)に和泉の
石津の戦いで命を落としています。
南部師行の騎馬像の前に根城の史跡への入り口があります。
根城の史跡公園の入り口には江戸時代に築かれた
八戸城の東門が移築されていました。
伝承によれば、元々根城にあった門を
八戸城に移したそうで、里帰りした形です。
八戸城東門を抜けると立派な堀を土橋で渡ります。
12月の八戸は、さすがに雪が積もっています。
雪のおかげで、空堀の様子がよくわかります。
この堀は、根城の三の丸にあたる東善寺曲輪の
東の端に位置しています。
敵の侵入を防ぐ一番重要な堀だったと思います。
空堀を渡ると薬草園がありました。
右手に東善寺曲輪を眺めながら薬草園を抜けると
目の前に広々とした雪原が広がりました。
当時は、この平地にも食料となる木が植えられていたようです。
冬の寒々とした光景ですが、温かい季節には、
のんびりと過ごせそうです。
その右手に東善寺跡がありました。
林の中に墓石が並んでいました。
この東善寺跡は、馬淵川の河岸段丘の端の
小高い丘の上にあり、北側の馬淵川に向けて
急な勾配となって落ち込み、景色が開けています。
段丘を下り、こちらに向かって歩いてみました。
東善寺跡に向かっては、段丘の様子がよくわかります。
西側は、低地が続いていますが、この低地の中に
堀跡があったようです。
この堀は、一段高くなっている東善寺跡と
中館の間の平地にも続いていたようです。
この先の高台には中館の四阿が見えてきました。
四阿は多門櫓のようにも見えます。
高台の手前は深く切れ込んだ空堀で、
中館の護りを固めています。
上の写真の左手にあった通路を通り
一段高い曲輪に登りました。
通路を上ると、八戸城東門からまっすぐ
西に進んだ通路へと出ました。
上の写真左手の杜が東善寺跡です。
この西側に中館の曲輪との間の
堀がありました。
この堀も深く、立派なものでした。
根城が軍事的に機能していたのは南北朝時代の
ようですが、その時代に中央から遠く離れた
八戸の地で、これ程まで護りを固めなければ
ならなかったというのは、驚きでした。
東善寺曲輪の西の堀を土橋で渡り、
中館に向かいました。
中館から眺める空堀の様子です。
雪原となっている東善寺曲輪の奥の
東善寺跡の杜がはっきりと見えています。
中館には四阿が建てられています。
当時あった厩の復元でしょうか。
四阿から眺める中館は、東善寺曲輪よりも一段
高いところにあり、綺麗に整備されています。
訪れたのは12月で雪がうっすらと積もり、
寒々とした光景になっていました。
中館の郭の中央には、根城の全体と本丸の
復元建造物群の模型が展示されていました。
中館の案内板もありましたが、陽に焼けて
色褪せてしまったか、雪が積もっていたか、
残念ながら読むことが出来ませんでした。
中館は周囲を堀で囲まれています。
西の端に近づくと、本丸とその間の深く
切れ込んだ堀が見えてきました。
さすがに本丸側の堀は深く大規模なものでした。
こちらは振り返って眺めた中館の様子です。
寒々とした光景ですが、当時は建物が
建ち並んでいたと思います。
ちなみに中館は、城の中央にあった館
という意味では無く、南部氏家臣の
中館氏の屋敷から付いたようです。
本丸へは木橋が架かっていました。
当時もこのような木橋が架かり、敵が侵入すると、
その橋を陥して本丸に籠ったのでしょうか。
本丸の東側の堀の様子です。
深く、幅の広い立派な堀でした。
中館から空堀に架かる木橋を渡り
本丸に向かいます。
木橋から坂道を上り、本丸の正門にあたる
東門に向かいました。
本丸は1994年(平成6年)に、発掘調査に基づいて
当時の建物の一部が復元されています。
東門を抜け、入場料を支払い本丸に入りました。
東門のすぐ南には納屋が何棟か並んでいました。
納屋は、米や味噌などの貯蔵庫だったようで
その内部には米俵が置かれ、当時の
様子を再現されていました。
納屋の右手、東門の正面には主殿が復元されていました。
主殿の広さは544平方メートル(164坪)で、
復元の総工費は5億5千万円との事です。
公式行事や重要な客の応接に使用していたようです。
内部も復元されていますが、その写真がないのは
この時は立ち入りが出来なかったのでしょうか。
根城が廃城となったのは江戸時代初期の1627年(寛永4年)。
主殿の造りは宮殿の様な優雅な造りになっていますが
戦国時代に、このような建物が建てられていたとすると
この地は南部氏の支配が安定し、戦国の騒乱は
あまり及んでいなかったのでしょうか。
主殿から裏に建つ馬屋に向かいました。
馬屋の柱や板には手斧の跡が鮮明に残っています。
復元にあたってはその当時の道具を持ちいた
そうですので、これらの建物は戦国時代
以前のものを復元したと思われます。
主殿の北側には、さらにいくつかの馬屋があり、
そちらに向かってみました。
本丸の北東の隅からは、中館の様子を
眺めることが出来ました。
本丸との間の広く深い堀や、河岸段丘の
急な切岸の様子が一望できました。
本丸の北東隅には、築城当初からあったという大銀杏と
その脇に「南無妙法蓮華経」の碑がありました。
この碑の文字は、南部氏36代当主・
南部日実氏の直筆という事です。
ここから西側に向かって馬屋が並んでいます。
上の写真左手に見えるのが中馬屋の建物です。
そして下の写真が下馬屋跡です。
下馬屋跡はその面積が大きく、馬屋だけでなく
武具の倉庫、門番の住居も兼ねていたそうです。
この辺りは本丸の北西の隅に近く、
物見櫓跡もありました。
その近くに「一葉一字」の供養塔と
復元された番所の建物がありました。
「一葉一字」の供養塔は、1718年(享保3年)に
八戸藩初代藩主・南部直房の家来・接待宗碩が
藩の繁栄と先祖や根城の戦没者の供養の為に
法華経を書いた板を埋めたところです。
番所の奥に見えているのが西門です。
ここから本丸の西側を南に下ると
本殿の西側に工房が建ち、その前に
常御殿の敷地跡が平面復元されていました。
常御殿は、当主の住まいと政務の両方に
使われた建物の様で、根城の中心的な
役割を果たしていたようです。
この先で、本丸の西側を見渡せる
箇所がありました。
本丸の西側も、幅の広い堀が築かれていたようです。
その近くには野鍛冶場がありました。
発掘調査で焼けた地面や鍛冶関連の
遺跡が出土したそうです。
この辺りは本丸の南端に近いところです。
常御殿の平面復元の向こうに
主殿の建物が見えています。
右手に見える建物は鍛冶工房です。
鍛冶工房の東側には板蔵がありました。
二つの建物の向こうに見える平面復元は
奥御殿の建物跡を示しています。
奥御殿は当主の家族が住んでいたそうです。
板蔵には奥御殿で使われる道具や衣類の
収納庫だったようで、復元された蔵には
漆塗りの立派な櫃などが置かれていました。
奥御殿の平面復元の様子です。
こうして東門から反時計回りに
根城本丸を一周してみました。
この後、本丸の南を走る国道104号線に出て
本丸の周囲を巡る空堀の様子を眺めてみました。
深く切れ込んだ空堀を眺める事が出来、
根城の散策を満足して終えました。
この史跡広場の南側の住宅地にも
当時の曲輪の一部が残されているようで、
そこを見逃したのは少々心残りでしたが、
多くの建物が復元された本丸は素晴らしかったです。