悲惨な沖縄戦の様子を伝える記念碑の
戦前、軍国主義国家だった日本は、1937年(昭和12年)に
1942年(昭和17年)のミッドウェー海戦後、敗勢となった日本は、
この沖縄戦では、旧日本陸軍が住民を巻き添えにして戦いを
「ひめゆりの塔」は、この沖縄戦で従軍させられた沖縄師範学校女子部と
ひめゆりの塔は、喜屋武岬から北東に約3km程の所に位置しています。
ひめゆりの塔の周辺はひめゆり平和祈念館も建てられ、
門を抜けしばらく歩くと「ひめゆりの塔の記」がありました。
「ひめゆりの塔の記」には、ひめゆり部隊の
その奥に、沖縄戦殉職医療人の碑(下の写真右)と
そして、その奥に「ひめゆりの塔]があります。
ひめゆりの塔は、戦後にアメリカ軍の指示により
上の写真は、2009年6月23日に建てられた二代目の塔です。
碑の前の穴は、第三外科壕跡です。
ひめゆり部隊は、アメリカ軍の激しい攻撃を避けるため、
このうち、第三外科壕は6月19日に手りゅう弾攻撃を受け、
奥行きはどれほどあるのかは分かりませんでしたが
「ひめゆりの塔]の奥には、ひめゆり平和祈念資料館があります。
当時の写真など、惨状を今に伝えています。
ひめゆり平和祈念資料館の中庭です。
ひめゆりの塔を去る時に、若い女性が「ひめゆりの
特に若い人には、戦争の悲惨さを知って頂いて、
「ひめゆりの塔」を訪れた後、近くにある
ひめゆりの塔、沖縄県
Himeyuri Monument, Okinawa

一つとして、「ひめゆりの塔」があります。
盧溝橋事件を起し、中国に攻め込むと、1941年(昭和16年)には
マレー半島に戦線を拡大し、更にはハワイの真珠湾を攻撃し、
愚かな太平洋戦争へと、突入していきます。
占領した地域を次々に失い、1944年(昭和19年)に入ると
本土空襲が本格化し、1945年(昭和20年)3月26日には
アメリカ軍が沖縄に上陸し、以降沖縄が戦場となります。
行った事が知れれており、沖縄での戦死者20万人の内、
10万人近くが一般人の犠牲者だったとされています。
沖縄県立第一高等女学校の女子生徒と教員約240名のうち、
戦死した生徒123名、職員13名の慰霊碑です。
ひめゆりの塔以外の碑もいくつかあって、整備されています。

撮影: 2012年7月

撮影: 2012年7月
最期の様子が記されています。
陸軍病院第三外科職員の碑(下の写真左)がありました。

撮影: 2012年7月

撮影: 2012年7月
地元の住人が戦死者の遺骨を集め、1946年
(昭和21年)4月に慰霊碑を建立しています。
写真を撮った時には気がついていませんでしたが、
右端に近い黒ずんだ小さな碑が初代の碑のようです。

撮影: 2012年7月
第一外科壕、第二外科壕そして第三外科壕と、
いくつかの地下壕に身を隠していたそうです。
地下壕に居た96名のうち87名が戦死し、その後の
戦でも戦死者が出て、戦争後まで生き残ったのは
わずか5名だったそうです。
少なくとも壕の入口はそれほど大きくはなく、この
狭い空間で100名近い方が命を落としたとは
胸が締め付けられるような思いがしました。

撮影: 2012年7月
訪れたのはもう10年以上前ですが、当時の
ひめゆり部隊の方が、様子を語っていました。

撮影: 2012年7月
綺麗に整備された中庭は平和な事の象徴です。
塔の記」を熱心に読んでいる所を見かけました。
二度と戦争を起こさない日本を実現して欲しいと思います。
「ずゐせんの塔」にも立ち寄ってみました。