ひめゆりの塔、沖縄県
Himeyuri Monument, Okinawa


悲惨な沖縄戦の様子を伝える記念碑の
一つとして、「ひめゆりの塔」があります。

戦前、軍国主義国家だった日本は、1937年(昭和12年)に
盧溝橋事件を起し、中国に攻め込むと、1941年(昭和16年)には
マレー半島に戦線を拡大し、更にはハワイの真珠湾を攻撃し、
愚かな太平洋戦争へと、突入していきます。

1942年(昭和17年)のミッドウェー海戦後、敗勢となった日本は、
占領した地域を次々に失い、1944年(昭和19年)に入ると
本土空襲が本格化し、1945年(昭和20年)3月26日には
アメリカ軍が沖縄に上陸し、以降沖縄が戦場となります。

この沖縄戦では、旧日本陸軍が住民を巻き添えにして戦いを
行った事が知れれており、沖縄での戦死者20万人の内、
10万人近くが一般人の犠牲者だったとされています。

「ひめゆりの塔」は、この沖縄戦で従軍させられた沖縄師範学校女子部と
沖縄県立第一高等女学校の女子生徒と教員約240名のうち、
戦死した生徒123名、職員13名の慰霊碑です。

ひめゆりの塔は、喜屋武岬から北東に約3km程の所に位置しています。

喜屋武岬の散策記はこちらです。

ひめゆりの塔の周辺はひめゆり平和祈念館も建てられ、
ひめゆりの塔以外の碑もいくつかあって、整備されています。


撮影: 2012年7月

門を抜けしばらく歩くと「ひめゆりの塔の記」がありました。


撮影: 2012年7月

「ひめゆりの塔の記」には、ひめゆり部隊の
最期の様子が記されています。

その奥に、沖縄戦殉職医療人の碑(下の写真右)と
陸軍病院第三外科職員の碑(下の写真左)がありました。


撮影: 2012年7月

そして、その奥に「ひめゆりの塔]があります。


撮影: 2012年7月

ひめゆりの塔は、戦後にアメリカ軍の指示により
地元の住人が戦死者の遺骨を集め、1946年
(昭和21年)4月に慰霊碑を建立しています。

上の写真は、2009年6月23日に建てられた二代目の塔です。
写真を撮った時には気がついていませんでしたが、
右端に近い黒ずんだ小さな碑が初代の碑のようです。

碑の前の穴は、第三外科壕跡です。


撮影: 2012年7月

ひめゆり部隊は、アメリカ軍の激しい攻撃を避けるため、
第一外科壕、第二外科壕そして第三外科壕と、
いくつかの地下壕に身を隠していたそうです。

このうち、第三外科壕は6月19日に手りゅう弾攻撃を受け、
地下壕に居た96名のうち87名が戦死し、その後の
戦でも戦死者が出て、戦争後まで生き残ったのは
わずか5名だったそうです。

奥行きはどれほどあるのかは分かりませんでしたが
少なくとも壕の入口はそれほど大きくはなく、この
狭い空間で100名近い方が命を落としたとは
胸が締め付けられるような思いがしました。

「ひめゆりの塔]の奥には、ひめゆり平和祈念資料館があります。


撮影: 2012年7月

当時の写真など、惨状を今に伝えています。
訪れたのはもう10年以上前ですが、当時の
ひめゆり部隊の方が、様子を語っていました。


撮影: 2012年7月

ひめゆり平和祈念資料館の中庭です。
綺麗に整備された中庭は平和な事の象徴です。

ひめゆりの塔を去る時に、若い女性が「ひめゆりの
塔の記」を熱心に読んでいる所を見かけました。

特に若い人には、戦争の悲惨さを知って頂いて、
二度と戦争を起こさない日本を実現して欲しいと思います。

「ひめゆりの塔」を訪れた後、近くにある
「ずゐせんの塔」にも立ち寄ってみました。


撮影: 2012年7月

「ずゐせんの塔」は、沖縄県立首里高等女子学校の看護隊と
その職員の慰霊碑で、102名の方が合祀されているそうです。

沖縄では、ひめゆり部隊以外にも多くの学生が戦争に巻き込まれ、
その命を落としている事も知っておくべき事と思いました。

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