本郷三丁目界隈
東京では至る所にビルが建ち込め、なかなか地形の起伏を
推し量る事は出来ないのですが、東京の地形は思いがけず
起伏が激しく、至る所に急な坂道があります。
上野の不忍池の西側から水道橋の東側には駒込辺りから
舌状に丘陵地が延び、周囲よりも一段と高くなっています。
この丘陵地は水道橋からお茶の水にかけて流れる
神田川によって遮られていますが、その南端に近い所が
本郷1丁目から本郷5丁目にあたります。
水道橋駅を下車し、北東側の交差点から
神田川に沿って東に向かいました。

撮影: 2012年6月
神田川の右手に建つビルは、東京ドームホテルです。
下の写真は、東向かう外堀通りの坂道です。

撮影: 2012年6月
思いがけずに坂は急でした。
この坂がお茶の水駅辺りまで続いています。
左手の建物は東京都立工芸高校の校舎です。
外堀通りの歩道には、「お茶の水分水路」の碑と
水路をモチーフにしてオブジェがありました。

撮影: 2012年6月
お茶の水分水路は、昭和60年過ぎに造られた神田川の分流水路です。
この水道橋の東側では、江戸時代に作られた神田上水が神田川を
掛樋で越えて日本橋方面に給水されていたそうです。
「お茶の水坂」の途中に公園がありました。
階段を上って公園に中を通り抜けました。

撮影: 2012年6月
公園は「お茶の水坂」よりも一段高い位置にあり、
その周囲には建物が建ち並んでいました。

撮影: 2012年6月
この街並みを東に向かうと本郷給水所公苑があります。
この下には配水池があり、池の上を公園にしたそうです。
大きな地球儀があり、薔薇が植えられているそうです。

撮影: 2012年6月
公園は広々として、リフレッシュ出来る場所でした。
この公園にはかつて神田川の上に架かっていた石樋が
復元されているそうですが、見落としてしまいました。
本郷給水所公苑から北に向かうと、本郷3丁目駅があります。
東西に走る春日通と、南北に走る旧中山道との交差点です。

撮影: 2012年6月
この交差点の西南角に「かねやす」があります。
「かねやす」は、徳川家康が江戸入府した際に
京都から移り住んできた歯医者が発祥との事です。

撮影: 2012年6月
元禄年間(17世紀初頭)に、歯磨き粉を売り出したところ
大いに人気を博し、小間物屋を開業したそうです。
"本郷も かねやすまでは 江戸のうち"
という川柳が江戸時代に詠まれています。
今では、本郷三丁目は都心に近い位置ですが、
当時はここが江戸の北限と認識されていたようです。
本郷三丁目の交差点から春日通を渡り、
北に向かうと提灯を掲げた小路がありました。

撮影: 2012年6月
この小路を進んでいくと、道の真ん中に小さな社がありました。
本郷薬師といい、1670年(寛文10年)に建立された、
かつてここにあった真光寺の薬師堂の名残のようです。
月に3度あった縁日の日は多くの人で賑わったそうです。
本郷薬師から、南に向かい、春日通りを越えると
三河稲荷神社がありました。

撮影: 2012年6月
この神社も、徳川家康の江戸入府の際に、
三河(現在の愛知県)から江戸に移って来たそうです。
三河稲荷神社は、先に訪れた
本郷給水所公苑のすぐ北にあります。
三河稲荷神社から西に向かうと、
水道橋に向かって急な下り坂になりました。

撮影: 2012年6月
下り坂の途中に、金刀比羅宮東京分社がありました。

撮影: 2012年6月
都立工芸高校からこの金毘羅宮辺りにかけて、
江戸時代には高松藩の下屋敷があったそうです。
初代藩主の松田板頼重は、徳川光圀の兄だそうです。
高松城の登城記は こちら です:
http://cf916626.cloudfree.jp/Oshiromeguri/Shikoku/TakamatsuJyo.html
金毘羅宮から水道橋に向かうと、ビルとビルの間から
東京ドームホテルの建物が見えていました。

撮影: 2012年6月
今までお伝えした本郷三丁目界隈の散策記は
2012年6月に訪れた時のものですが、それから
10年経った2022年5月に、春日通を西に向かいました。
春日通りは、本郷三丁目の交差点から西に少しいったところで
北に向かってカーブしていますが、細い路が直進しています。
その道を歩いていくと、下り坂となりました。
この坂は旧東富坂と言い、坂の途中の駐車場で東京メトロ・
丸の内線がトンネルから地上に出てくる地点がありました。

撮影: 2022年5月
丸の内線は、水平な状態で、地下から地上に出ると、
その先では高架となり、後楽園駅に向かっています。

撮影: 2022年5月
この様子を眺めてみると、東京の地形の複雑さ、
険しさが良く判りました。
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旧加賀藩上屋敷
(東京大学本郷キャンパス)
(Tokyo University Hogo Campus)
東京メトロを本郷三丁目駅で下車し、
東京大学の本郷キャンパスを目指しました。
東京大学本郷キャンパスは江戸時代には
加賀藩上屋敷だった事で知られています。
本郷三丁目の交差点から本郷通りを
真っ直ぐ北に向かうと赤門や正門に出ますが
東西に走る春日通を東に向かい
春日門からキャンパスに入りました。

2007年に新しくなった春日門です。
門の両脇に加賀藩時代の
煉瓦の壁が残っているそうです。
春日門のすぐ近くには壊徳館庭園があります。

壊徳館は1910年(明治43年)に明治天皇が
前田家への行幸に際して築いた建物で
その際に庭園も造られました。
第二次大戦で被害を受けた庭園も
戦後復興されたそうですが、
関係者以外立ち入り禁止となっていました。
この後、有名な赤門に行ってみました。

正式名称は旧加賀屋敷御守御門というそうです。
現地の案内板によると、この赤門が出来たのは
江戸時代も後期の1827年(文政10年)の事だそうです。
1903年(明治36年)に医科大学の校舎を建設する際に
当時の位置より、本郷通り寄りに15m移動したそうです。

この赤門は三間薬医門で、門の両脇には
番人が詰めていた番所も残されています。
この赤門は国の重要文化財に指定されています。
この後、キャンパスの中を散策しました。
キャンパスには歴史を感じさせる
校舎がいくつも建ち並んでいました。

これらの建物の多くは国の
文化財に指定されています。
このアーケードは法文2号館の校舎です。

美術館の様な佇まいのこの建物も
国の登録有形文化財です。
そして、本郷キャンパスには
公孫樹の並木が続いています。

秋、この公孫樹が色付く頃はとっても綺麗です。

公孫樹は東大のシンボルマークにもなっている
そうですが、この美しさを見るとそれも納得です。
キャンパスを歩いた後に
安田講堂へと向かいました。

本郷キャンパスのほぼ中央にあるこの建物は、
安田財閥の創始者・安田善次郎の寄付で
1925年(大正14年)に竣工しています。
青空に煉瓦色の建物が聳えるように建ち、
その手前には綺麗に整備された芝生が広がり
学生が腰を下ろしたりしていて、平和な大学の
キャンパスを象徴するような光景です。
しかし、この安田講堂で一番インパクトがあるのが
昭和40年代の東大闘争での激しい戦いです。
その時、TVで実況中継を見ていたので、
初めて安田講堂を見た時には
不思議な感慨がありました。
この安田講堂から東南に坂道を
下っていくと三四郎池に至ります。

加賀藩邸の園地で、当時は
育徳園という名であったそうです。
池の形が"心"の字をかたどっているそうですが、
ここでも、その字を思い浮かべる
事は出来ませんでした。
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白山界隈
東京大学の本郷キャンパスから
本郷通りを北に向かうと
寺院を多く見かけるようになります。
こちらは本郷通りの西側の正行寺です。

案内板によるとこのお寺の地蔵尊は
「とうがらし地蔵」として知られているようです。
1702年(元禄15年)にこの寺の僧・覚法院が
所願成就や咳の病を治すために
石像を刻んだのが始まりだそうです。
この正行寺の南隣には、江戸時代後期に
択捉島を探検した近藤重蔵のお墓のある
西善寺もありましたが、そこは見逃してしまいました。
この正行寺から本郷通りに出ると、
道端の史跡地図に、夏目漱石の旧居跡が
近くにあるというので向かってみました。

この史跡地図は東京の街中でよく見かけますが、
あまり下調べせずに東京の散策をしている時には
思いがけない発見が何度もあって、とっても重宝します。
本郷通りの一本東の通りに向かい、
夏目漱石の旧居跡を探し当てました。
ここは夏目漱石がイギリス留学から戻った
1903年(明治36年)から3年間住んでいた所でした。
夏目漱石がイギリス留学の際に滞在した
Londonの様子はこちらです。
Pitlochryの様子はこちらです。
イギリス赴任前に住んだことのある
松山の散策記はこちら、
熊本の散策記はこちらです。

夏目漱石は「吾輩は猫である」を初め
「倫敦塔」「坊っちゃん」「草枕」などの
小説をこの地で書いたそうです。
この地は、夏目漱石が住む13年前には
森鴎外も住んでいたそうで、日本の文学界を
代表する二人にとって所縁の地です。

ふと近くの塀を見ると、猫の像がありました。
夏目漱石の旧居跡から、住宅地を歩き
次に向かったのは光源寺です。

この光源寺は1589年(天正17年)に創建され
1648年(慶安元年)にこの地に移転したそうです。

訪れた日に丁度「四万六千日」の縁日が
開かれ浴衣姿の女の人もいました。
この光源寺には高さ6mの
金色に輝く仏像がありました。

元々、1697年(元禄10年)に建立された
十一面観音像があったのですが、
第二次大戦で焼失ちたものを再建したそうです。
光源寺の次に向かったのは
近くにある栄松院です。

こちらには、江戸時代初期の浄瑠璃太夫・
薩摩浄雲や、江戸時代中期の歌舞伎俳優・
初代松本幸四郎のお墓がありました。
栄松院から南西に向かい、本郷通りを横切り
東京メトロ白山駅近くの大円寺を訪れました。
この大円寺は"八百屋お七"と
関わりのあるお寺です。

八百屋お七は、江戸時代初期に放火の罪で、
数えで16歳で火あぶりの刑を受けた町娘です。
お七は1682年(天和2年)の天和の大火で
円乗寺に避難し、そこで知り合った佐兵衛
(または吉三郎)と恋仲になります。
その後、自宅に戻ったお七は佐兵衛と
逢えなくなり、佐兵衛と逢いたい一心で、
この大円寺に放火したそうです。
大円寺の境内には"ほうろく地蔵"がありました。

火あぶりになったお七の罪業を救うために
熱した焙烙を頭にかぶり焦熱の苦しみを
身代わりに受けたお地蔵様と言われています。
この大円寺から更に西に向かい
台地を下ると大乗寺がありました。

この辺りは指ヶ谷と呼ばれていたようです。
大乗寺は1620年(元和6年)に宝仙法印に
よって開山された天台宗のお寺です。

この大乗寺は、天和の大火の際に、
八百屋お七が避難したお寺です。
境内には、お七のお墓もありました。

お墓は3つあり、中央のお墓は1683年
(天和3年)に当時の住職が建てたもの、
右のお墓は、歌舞伎でお七を演じた初代・
岩井半四郎が1793年(寛政5年)に建てたもの、
そして、左が町内有志が270回忌で建てたものです。
八百屋お七と恋仲になった佐衛兵(吉三)は
その後、目黒・大圓寺の下の明王院に入り
お七の菩提を弔うために、行を行ったそうです。
目黒の散策記はこちらです。
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