旧加賀藩上屋敷
(東京大学本郷キャンパス)
(Tokyo University Hogo Campus)
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東京メトロを本郷三丁目駅で下車し、
東京大学の本郷キャンパスを目指しました。
東京大学本郷キャンパスは江戸時代には
加賀藩上屋敷だった事で知られています。
本郷三丁目の交差点から本郷通りを
真っ直ぐ北に向かうと赤門や正門に出ますが
東西に走る春日通を東に向かい
春日門からキャンパスに入りました。
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2007年に新しくなった春日門です。
門の両脇に加賀藩時代の
煉瓦の壁が残っているそうです。
春日門のすぐ近くには壊徳館庭園があります。
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壊徳館は1910年(明治43年)に明治天皇が
前田家への行幸に際して築いた建物で
その際に庭園も造られました。
第二次大戦で被害を受けた庭園も
戦後復興されたそうですが、
関係者以外立ち入り禁止となっていました。
この後、有名な赤門に行ってみました。
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正式名称は旧加賀屋敷御守御門というそうです。
現地の案内板によると、この赤門が出来たのは
江戸時代も後期の1827年(文政10年)の事だそうです。
1903年(明治36年)に医科大学の校舎を建設する際に
当時の位置より、本郷通り寄りに15m移動したそうです。
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この赤門は三間薬医門で、門の両脇には
番人が詰めていた番所も残されています。
この赤門は国の重要文化財に指定されています。
この後、キャンパスの中を散策しました。
キャンパスには歴史を感じさせる
校舎がいくつも建ち並んでいました。
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これらの建物の多くは国の
文化財に指定されています。
このアーケードは法文2号館の校舎です。
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美術館の様な佇まいのこの建物も
国の登録有形文化財です。
そして、本郷キャンパスには
公孫樹の並木が続いています。
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秋、この公孫樹が色付く頃はとっても綺麗です。
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公孫樹は東大のシンボルマークにもなっている
そうですが、この美しさを見るとそれも納得です。
キャンパスを歩いた後に
安田講堂へと向かいました。
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本郷キャンパスのほぼ中央にあるこの建物は、
安田財閥の創始者・安田善次郎の寄付で
1925年(大正14年)に竣工しています。
青空に煉瓦色の建物が聳えるように建ち、
その手前には綺麗に整備された芝生が広がり
学生が腰を下ろしたりしていて、平和な大学の
キャンパスを象徴するような光景です。
しかし、この安田講堂で一番インパクトがあるのが
昭和40年代の東大闘争での激しい戦いです。
その時、TVで実況中継を見ていたので、
初めて安田講堂を見た時には
不思議な感慨がありました。
この安田講堂から東南に坂道を
下っていくと三四郎池に至ります。
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加賀藩邸の園地で、当時は
育徳園という名であったそうです。
池の形が"心"の字をかたどっているそうですが、
ここでも、その字を思い浮かべる
事は出来ませんでした。
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白山界隈
東京大学の本郷キャンパスから
本郷通りを北に向かうと
寺院を多く見かけるようになります。
こちらは本郷通りの西側の正行寺です。
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案内板によるとこのお寺の地蔵尊は
「とうがらし地蔵」として知られているようです。
1702年(元禄15年)にこの寺の僧・覚法院が
所願成就や咳の病を治すために
石像を刻んだのが始まりだそうです。
この正行寺の南隣には、江戸時代後期に
択捉島を探検した近藤重蔵のお墓のある
西善寺もありましたが、そこは見逃してしまいました。
この正行寺から本郷通りに出ると、
道端の史跡地図に、夏目漱石の旧居跡が
近くにあるというので向かってみました。
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この史跡地図は東京の街中でよく見かけますが、
あまり下調べせずに東京の散策をしている時には
思いがけない発見が何度もあって、とっても重宝します。
本郷通りの一本東の通りに向かい、
夏目漱石の旧居跡を探し当てました。
ここは夏目漱石がイギリス留学から戻った
1903年(明治36年)から3年間住んでいた所でした。
夏目漱石がイギリス留学の際に滞在した
Londonの様子はこちらです。
Pitlochryの様子はこちらです。
イギリス赴任前に住んだことのある
松山の散策記はこちら、
熊本の散策記はこちらです。
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夏目漱石は「吾輩は猫である」を初め
「倫敦塔」「坊っちゃん」「草枕」などの
小説をこの地で書いたそうです。
この地は、夏目漱石が住む13年前には
森鴎外も住んでいたそうで、日本の文学界を
代表する二人にとって所縁の地です。
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ふと近くの塀を見ると、猫の像がありました。
夏目漱石の旧居跡から、住宅地を歩き
次に向かったのは光源寺です。
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この光源寺は1589年(天正17年)に創建され
1648年(慶安元年)にこの地に移転したそうです。
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訪れた日に丁度「四万六千日」の縁日が
開かれ浴衣姿の女の人もいました。
この光源寺には高さ6mの
金色に輝く仏像がありました。
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元々、1697年(元禄10年)に建立された
十一面観音像があったのですが、
第二次大戦で焼失ちたものを再建したそうです。
光源寺の次に向かったのは
近くにある栄松院です。
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こちらには、江戸時代初期の浄瑠璃太夫・
薩摩浄雲や、江戸時代中期の歌舞伎俳優・
初代松本幸四郎のお墓がありました。
栄松院から南西に向かい、本郷通りを横切り
東京メトロ白山駅近くの大円寺を訪れました。
この大円寺は"八百屋お七"と
関わりのあるお寺です。
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八百屋お七は、江戸時代初期に放火の罪で、
数えで16歳で火あぶりの刑を受けた町娘です。
お七は1682年(天和2年)の天和の大火で
円乗寺に避難し、そこで知り合った佐兵衛
(または吉三郎)と恋仲になります。
その後、自宅に戻ったお七は佐兵衛と
逢えなくなり、佐兵衛と逢いたい一心で、
この大円寺に放火したそうです。
大円寺の境内には"ほうろく地蔵"がありました。
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火あぶりになったお七の罪業を救うために
熱した焙烙を頭にかぶり焦熱の苦しみを
身代わりに受けたお地蔵様と言われています。
この大円寺から更に西に向かい
台地を下ると大乗寺がありました。
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この辺りは指ヶ谷と呼ばれていたようです。
大乗寺は1620年(元和6年)に宝仙法印に
よって開山された天台宗のお寺です。
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この大乗寺は、天和の大火の際に、
八百屋お七が避難したお寺です。
境内には、お七のお墓もありました。
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お墓は3つあり、中央のお墓は1683年
(天和3年)に当時の住職が建てたもの、
右のお墓は、歌舞伎でお七を演じた初代・
岩井半四郎が1793年(寛政5年)に建てたもの、
そして、左が町内有志が270回忌で建てたものです。
八百屋お七と恋仲になった佐衛兵(吉三)は
その後、目黒・大圓寺の下の明王院に入り
お七の菩提を弔うために、行を行ったそうです。
目黒の散策記はこちらです。
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