2007年夏、紀尾井町の近くに
ちなみに紀尾井町という地名も紀伊、尾張
出張を終え、夕方に諏訪坂を下っていく途中
落ち着いた雰囲気で、
坂を下りきる手前に石垣が見えてきました。
これが赤坂見附の跡です。
当時、見附の番は大名や寄合旗本が
大門は今の時刻で午前6時に開き、
赤坂見附の石垣跡の下には
弁慶濠です。
明治時代には土手に桜が植えられ
弁慶という地名は、寛永年間(1624〜44年)に
今では弁慶濠の向こう側には
そして地下鉄の赤坂見附駅付近の様子です。
高速道路が走り、近代的な眺めです。
ここは滅多に来た事がないのですが、
赤坂見附から江戸城外濠に沿って紀の国坂を
喰違見附は江戸城三十六見附の一つで
喰違見附を抜けると立派なホテル・
この広大なホテルが建っているのは、
近江藩は国会前庭一帯の外桜田に上屋敷があり、
ホテル・ニューオータニを過ぎると、
この急坂は紀尾井坂と呼ばれています。
ニューオータニにあった井伊家屋敷と
紀尾井坂を再び上り、ホテル・ニューオータニの
この公園は清水谷公園で、立派な碑がありました。
大久保利通の哀悼碑です。
清水谷公園は、以前は北白川宮家があった場所です。
公園内にある偕香苑は茶室として使われている
虎ノ門は霞が関ビルや最近では虎ノ門ヒルズなど、
虎ノ門駅から桜田通を北に向かうと、広い通りの
ここは当時、江戸城外濠に面して虎ノ門見附があった所です。
今は濠も埋められ、見附の跡も全く残っていません。
文化庁の建物の奥に霞が関ビルが建っていました。
文化庁の建物の奥に建つのが霞が関ビルです。
外濠は、新橋駅北側の新橋第一ホテルから西に進み、
霞が関ビルの所に残る石垣は虎ノ門見附から
外堀通りを隔てた南側にも石垣が残っていました。
ちなみにこの石垣跡から東に50m程行ったところは
江藤新平は、この襲撃では重傷を負い、その後下野し、
外堀通りの北側には特許庁の立派な庁舎が建ち、
当時の外濠は、今の特許庁の建物辺りで、
東京 / 赤坂〜虎ノ門界隈
Akasaka & Toranomon in Tokyo
江戸時代、江戸城の内堀や外堀には
いくつも城門があったそうです。
今でも残る桜田門や田安門、
清水門もそれらの城門です。
いずれも枡形と呼ばれる
石垣で囲まれた矩形の空間を持ち
その空間を櫓門と高麗門とで遮った
堅牢な守りになっています。
これらの門の様子は江戸城を参照下さい。
江戸城の様子はこちらです。
当時はこれらの城門を見附といい
江戸三十六見附と言われていたそうです。
36の見附が具体的にどの門を言うのかは
はっきりしていないそうですが、
江戸城の城門は26もあったそうです。
赤坂見附もその城門の一つでした。
この周囲は華やかなオフィスビルや高級ホテル、
大使館などが建っていれば歴史ある神社の
杜もあり、不思議な魅力のある街です。
2007年から2011年にかけ、何度か
この赤坂の周辺を散策しました。
その様子を紹介します。
赤坂見附〜紀尾井町
Feb. 18, '20
赤坂見附〜山王日枝神社
Feb. 22, '16
氷川神社
Feb. 26, '16
虎ノ門周辺
NEW ! May 09, '20
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赤坂見附〜紀尾井町
(Akasaka Mitsuke and Kioicho Area)
出張する機会がありました。
そして井伊家の藩邸が建っていた事から
つけられた地名だそうです。
赤坂プリンスホテルの旧館がありました。
撮影: 2007年9月
歴史を感じさせる建物です。
撮影: 2007年9月
枡形は取り壊され、今ではこの石垣だけが
ここに城門があったことを示しています。
受け持つ名誉ある職だったようです。
午後6時には閉まっていたそうです。
小門も午前0時には閉められていたそうです。
外堀の跡が残っています。
撮影: 2007年9月
濠には橋が架けられ、東京の
観光名所になっていたそうです。
この掘割工事を請け負った大工の
弁慶小左衛門にちなんでいるそうです。
見上げる様な高層ビルが建っています。
撮影: 2007年9月
撮影: 2007年9月
中学の修学旅行で、この通りをバスで
走った事を不思議と鮮明に覚えています。
上り、赤坂御所の前の交差点を右に
折れると、喰違見附に出ます。
門は残っていませんが、門の跡を示す
ように道路がクランク状になっています。
ニューオータニが見えてきます。
撮影: 2011年6月
江戸時代に近江藩井伊家屋敷があったところです。
撮影: 2011年6月
ここは中屋敷として使用していたようです。
撮影: 2011年6月
道は急な下り坂となりました。
撮影: 2011年6月
赤坂プリンスホテル跡にあった紀伊藩邸
そして上智大学にあった尾張藩邸があり、
その三つの藩の名前をとって紀尾井坂の
名前が付けられています。
手前の交差点で左に曲がると、公園があります。
撮影: 2011年6月
1878年(明治11年)5月14日朝、明治天皇に謁見するため、
赤坂仮皇居に向かう途中で、石川県士族・島田一郎らに
襲われ命を落としたのでした。
1890年(明治23年9に東京都に下賜され、1956年
(昭和31年)に公園となり、一般開放されています。
撮影: 2011年6月
「偕香苑」もあり、静かな佇まいでした。
赤坂見附〜山王日枝神社
(from Akasaka Mitsuke to Sannou-Hie Shrine)
2010年9月に、東京・赤坂に出張の機会があり、
そのついでに山王日枝神社を訪れました。
東京メトロ・赤坂見附駅付近の様子です。
ここから南に向かいました。
500m程歩くと、鳥居が見えてきました。
この鳥居の先の小高い丘の上に
山王日枝神社がありました。
山王日枝神社の歴史は古く、鎌倉時代に
秩父重継が館に山王社を勧進したそうです。
また、1478年(文明10年)に太田道灌が江戸城を
築いた際に川越の無量寿寺(今の喜多院)の鎮守、
川越日枝神社を勧請したものとも伝わっています。
鳥居を抜け、一段高いところにあった
日枝神社の名の入った石碑です。
ここから左右に石段が続いており、
右側の石段を上りました。
1590年(天正18年)に、徳川家康が江戸に移封となり
江戸城に居を構えると、日枝神社は江戸城内の
鎮守とされ、1604年(慶長9年)の徳川秀忠による
江戸城改築の際に、麹町に移されたそうです。
その後、1657年(明暦3年)の大火の後に、
今の場所に再度移されたそうです。
ここは江戸城の裏鬼門にあたるそうです。
高台の山王日枝神社に辿り着き、
南神門から境内に入りました。
この門は、横から入った形になり、
右手に神門が見えていました。
神門の脇には奉納された酒樽が
積み重ねられていました。
山王日枝神社の本殿です。
戦前は、国宝の社殿だったようですが、
東京大空襲の際に、焼失してしまいました。
現在の社殿は、1958年(昭和33年)に再建されています。
訪れた日は、晴れていて、本殿の
屋根の向こうに青空がのぞいていました。
登った時とは別の大きな階段を下り
外堀通りに出ました。
鳥居の向こうの高層ビルが印象的です。
この石段を下った南東に、江戸時代には
溜池と呼ばれる池がありました。
溜池は人工の池で、堰から流れ出る水が
ドントンと音を立てていたそうです。
この時は、山王日枝神社前の
交差点を西に向かいました。
東京メトロの赤坂駅近くの様子です。
この辺りから、ビルやマンションの建ち並ぶ
細い道を何度か折れて南に向かいました。
氷川神社
(Hikawa Shrine)
東京メトロの赤坂駅から狭い路地を
南に入ると小さな公園がありました。
その東側の道を南に向かうと、
急な下り坂になりました。
遠くに見えている高い建物は
東京ミッドタウンです。
この先で左手に折れ、坂道を上ると
氷川神社の裏参道がありました。
都内には氷川神社は3つほどあり、
ここは赤坂氷川神社と呼ばれています。
氷川神社の歴史は古く、951年(天暦5年)に
武州豊島郡人次ヶ原に素盞嗚尊
(すさのおのみこと)
を
祀ったのが始まりだそうです。
江戸時代になり、幕府の尊信も篤く、8代将軍・吉宗公が
1729年(享保14年),に、現在地に社殿を築いたそうです。
周囲はマンションが建ち並んでいますが、
この辺りはひっそりとしています。
一段高い所にある境内に向かう前、
階段を少し上ったところに別宮がありました。
四合稲荷神社と西行稲荷神社です。
四合(しあわせ)稲荷の名は、4つの神社を合わせた
名前ですが、勝海舟によって名付けられました。
この先で急な石段が続いていました。
この石段を上がった高台に氷川神社がありました。
鳥居の脇に神社名を書いた
立派な石碑がありました。
鳥居をくぐると、山車が展示されています。
近々お祭りがあるのだろうと思っていましたが
後で調べてみると、訪れた9月15日が祭礼の日でした。
桜門を抜けて本殿に向かいます。
祭礼の日とあってか、提灯が
いくつも飾られていました。
桜門を抜けた氷川神社の本殿です。
現在の社殿は、吉宗が築いたものがそのまま
残っていて、重厚な建物がとても印象的です。
この氷川神社の場所は、忠臣蔵で名高い、
赤穂藩主・浅野内匠頭の夫人 瑤泉院の実家、
浅野土佐守邸跡だったそうです。
大石内蔵助が討ち入り前にここを訪れて
別れを告げたといわれています。
これは本殿の左手にあった額堂です。
江戸の町火消の「ま組」の絵馬が
奉納されているそうです。
色々と謂れのある氷川神社ですが、幕末には
勝海舟もこの近くに住み、「氷川清話」を著しています。
祭礼の始まる前の静かな氷川神社を辞し、
近くの南部坂を通りました。
江戸時代初期に、この辺りに南部藩
中屋敷があり、この名が付いています。
吉良邸への討ち入りの直前に、現在の氷川神社の
敷地に住んでいた浅野内匠頭の正室・瑤泉院の下に
大石内蔵助が訪れた際、吉良側の間者と思しき女中がいた為、
仇討の本心を告げられずに辞するという有名な場面があります。
これを「南部坂雪の別れ」と云われていますが、
この坂の名から来ています。
虎ノ門周辺
(Toramomon Area)
高層ビルが建ち、また官庁街になっているエリアです。
向こう側に財務省、その左に文化庁がありました。
撮影: 2011年7月
1606年(慶長11年)に佐賀藩主・鍋島勝茂によって築かれています。
撮影: 2011年7月
霞が関ビルの下に当時の外濠の石垣が残っています。
虎ノ門見附跡で南に折れ曲がりっていたようです。
霞が関ビルの辺りで、再び西に向かっています。
南に折れた箇所の外濠の西側にあたります。
撮影: 2018年6月
撮影: 2018年6月
1870年(明治3年)に、肥前佐賀藩出身の太政官だった
江藤新平が元佐賀士族に襲撃された場所だそうです。
1874年(明治7年)に佐賀の乱を起し、梟首にされています。
西には溜池山王方面が見通せます。
撮影: 2018年6月
溜池と呼ばれる細長い溜池に続いていました。
江戸城のページでも紹介しています。
江戸城外濠の登城記はこちらです。
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