石橋城は、二代亀山城主だった奥平貞久の
次男・奥平久勝が初代城主となったお城です。
奥平久勝は、石橋の姓を名乗ります。
亀山城の登城記はこちらです。
石橋城は、亀山城の西南すぐ近くの所にあります。
石橋久勝は、第三代城主の奥平貞昌の家臣となりますが、
久勝の子、繁昌は第四代城主の貞勝への謀反が露見し、
1537年(天文6年)に滅ぼされたそうです。
石橋城は方形館城だったようです。
石橋繁昌が滅ぼされた後に、慈昌院となっています。
石橋城には2011年12月に登城しています。
その際の様子を紹介します。
JR飯田線新城駅から新城Sバス作手線で、
つくで手作り村下車。石橋城まではすぐです。
新城Sバス作手線のダイヤはこちらです。
飯田線の乗車記はこちらです。
【石橋城登城記】
2011年12月、亀山城を訪れ後、
石橋城に向かいました。
亀山城の登城記はこちらです。
道の駅の西側を国道が通っています。
その向こうの慈昌院が石橋城址です。
慈昌院は、石橋繁昌とその一族の死を哀れんだ
徳岩明和尚が、亀山城主の奥平貞勝に願い出て
建立したお寺とのことです。
慈昌院の門構えです。
本堂の裏手には、土塁が取り囲んでいます。
この土塁も立派なもので、地方の一豪族の
領主の傍系のお屋敷でもこうして土塁で
防御を固めていたのか、と思います。
その土塁に、いくつもお墓が並んでいました。
謀反の疑いを掛けられ石橋繁昌が滅ぼされた際、
一族郎党40名程が命を落としたとされています。
遺骸は穴に埋められ、そこに祠があるとのことですが、
土塁の上の祠がそれにあたるのでしょうか。
寺の南側の様子です。
のどかな山奥の石橋城です。
中世にはこのような土地でさえ、
親族間で血で血を洗う争いがあったと思うと、
恐ろしい時代だったと思い知らされました。