久保田城は、佐竹義宣が常陸から出羽・秋田に移封になった
ことに伴い、1603年(慶長8年)に築城されたお城です。
久保田藩20万石の政庁でしたが、東国のお城らしく
石垣はなく、また天守も建てられませんでした。
久保田城は、秋田駅の西北500m程にある
標高40mの神明山に位置しています。
神明山の山頂部に本丸を配し、その周囲に二ノ丸、
内堀を隔てて三ノ丸が周囲を囲む輪郭式の縄張りです。
天守が無い代わりに、「出し御書院」と呼ばれる
櫓座敷を建て、他に8基の櫓があったそうです。
久保田城は江戸時代から何度も大火に遭っていますが、
1880年(明治13年)の大火で、城内の殆どの
建物が焼失してしまったそうです。
平成に入り、本丸新兵具隅櫓と表門が復元されています。
この久保田城に2010年12月に登城しました。
その時の様子を紹介します。
久保田城は秋田駅の北西約500mの所にあります。
駅から二ノ丸への入り口の黒門跡まで
徒歩約10~15分程です。
八戸駅 - 久保田城間のバスの情報はこちらです。
【久保田城登城記】
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秋田駅から駅前の大通、広小路を真っすぐ西に
200m程歩くと、久保田町の交差点があります。
この交差点の北西の角に、大手門跡の碑がありました。
この西側には幅の広い外堀が残っています。
江戸時代には外堀は、東側にも続いていて、
大手門の碑があった位置に上土橋が架かり、
この土橋の先の鉤型に曲がった道の所に
二層の大手門が建っていたそうです。
大手門から西側に伸びる外堀の様子です。
当時、大手門があった辺りには櫓台に
なりそうな高台があります。
堀の対岸は国士館高校の校舎が建っています。
当時は、三ノ丸の屋敷が建ち並んでいた事と思います。
外堀に沿って進んでいくと、中土橋がありました。
中土橋を渡った所に、久保田城の城址碑がありました。
外堀は、中土橋の更に西にも続いています。
中土橋の両側の堀の様子です。
中土橋の東側が大手門の堀、西側が
穴門の堀と呼ばれているようです。
穴門は、三ノ丸の南西の角にあった門です。
中土橋を渡ると久保田城の三ノ丸に入ります。
この辺りは高校や県の施設があり、官庁街といった雰囲気です。
この北の台地の上に久保田城の本丸があります。
その麓に内堀が東西に横たわっていました。
この内堀を西に向かうと穴門跡があるようです。
内堀の東の端からは上り坂となっています。
この坂を上った所に、当時は松下門がありました。
松下門は、久保田城二ノ丸に繋がる4つの門の一つです。
松下門以外に、東側の黒門、北側の土門がありました。
久保田城へは、この松下門ではなく、 東側の黒門から入城しました。
外堀の東端の大手門跡に戻り、
ここから北に向かいました。
まもなく左手に小高い丘が見えてきましたが、
ここには江戸時代には鐘楼が建てられていました。
久保田城の縄張りはほぼ長方形になっていますが、
この鐘楼跡は南に飛び出した格好になっています。
この先、坂道を少し登ったところに内堀がありました。
この内堀にも土橋が架かっていました。
当時は唐金橋という名前の橋が架かっていたようです。
その土橋から眺める内堀の様子です。
凍てつくような雪景色ですが
この内堀に鴨が泳いでいました。
これからいよいよ久保田城の二ノ丸に入ります。
"久保田城"のTopに戻る 二ノ丸
内堀に架かる土橋を抜け、黒門跡から二ノ丸に入りました。
二ノ丸は南北に細長い曲輪です。
二ノ丸に入ると、一段高い所に一之門も見えていました。
久保田城は、秋田市の中心街に近い所にあり、
起伏の少ない平城かな、と想像していましたが、
予想以上に高低差があり、驚きました。
黒門跡を抜けたところから、二ノ丸の北側を眺めた様子です。
雪原が広がり、これも予想以上の広さです。
二ノ丸の東側には土塁が続いていました。
その土塁に沿って北に向かって歩きました。
一段高い本丸が迫り、圧迫感も感じました。
二ノ丸はここでいったん尽きますが、
土塁に従って更に進んでいきます。
この土塁の東側も急な切岸になっていて、
かなり下に城外を走る道路が見えています。
この辺りは当時、大手北門があった所だと思います。
二ノ丸は、この北側で一段高くなり、
更に北へと続いていました。
その一段高い北側の二ノ丸の、
一番南の端には胡月池がありました。
優雅な大名庭園のような景色ですが、この二ノ丸北側には、
現地の縄張り図では当時この一角には厩があったようで、
庭園があるのはちょっと違和感を覚えます。
ちょっと調べてみると、この胡月池は
明治になってから造られたようです。
二ノ丸北側の曲輪の東側の端を北に向かって
行くと、城外へと通じる道がありました。
ここは当時、不浄門がありました。
この辺りは久保田城の鬼門の東北に当たります。
北側の二ノ丸の様子です。
二ノ丸の一番北には彌高神社がありました。
彌高神社は、1909年(明治41年)に建てられた
比較的新しい神社です。
この社殿は佐竹氏の八幡神社の社殿で
1819年(文政2年)に建てられたものです。
彌高神社の裏手からは、久保田城の北側にあった
土門跡へと行くことが出来ます。
神社の駐車場のようなところを抜け、
本丸の切岸の下を歩いて行くと、
堀切にあったと思われる土門跡に出ます。
土門からは、坂道を上がると帯曲輪門を通り、
直接、本丸へと行くことも出来ました。
上の写真の右手の坂道を上がると本丸です。
再び二ノ丸に戻り、彌高神社から南へと向かいます。
本丸の切岸の下は、当時は馬場だったようです。
公園の食堂へと続く道は、当時の馬場の
跡に造られたものでしょうか。
その食堂を過ぎ、胡月池に至ると、西側に
本丸へと続く坂道が見えてきました。
本丸への出入り口の一つ、裏門に至る裏門坂です。
この坂道は雪も深く、本丸への正式ルートにあたる
長坂からアプローチすることにしました。
この雪の階段を上って本丸へ向かいました。
"久保田城"のTopに戻る 本丸
二ノ丸から長坂を上り、本丸へと向かいました。
長坂を登ったところで、本丸への道は
右に鉤状に曲がっています。
この辺りには長坂門がありました。
長坂門跡を過ぎ、石段の道が再び鉤状に曲がっています。
この先に、御物頭御番所がありました。
雪害を防ぐためでしょうか、竹で覆いがなされ、
一見、冬季休業中の茶店のような感じで
思わず見落としてしまいそうでした。
この番所は、長坂門の開閉と城下の警護を担った
御物頭の詰め所で、20名程が詰めていたそうです。
1758年(宝暦8年)の火災の後に再建されたそうです。
下から見上げた復元・表門の様子です。
表門に向かう石段からは裏門坂の様子が見えました。
本丸への正門にあたる復元・表門です。
表門は久保田城の築城の翌年、1604年
(慶長9年)に初めて建てられました。
江戸時代に何度も火災に遭い、焼失していましたが、
2001年(平成13年)に再建されています。
この表門を抜けると本丸です。
本丸は神明山の山頂付近にあり、
東西117m、南北215mもの広さがあります。
江戸時代には、この本丸には久保田藩の藩庁である
政務所や藩主の住居の本丸御殿が建てられていました。
本丸には秋田八幡神社がありました。
久保田藩の初代藩主・佐竹義宜を祀るため
明治になってから創建された神社です。
秋田八幡神社は、本丸の南寄りの所にあり、
その北側の部分は木が生い茂っていました。
当時はここに本丸御殿が建ち、
荘厳な眺めだったことと思います。
本丸に最後の久保田藩主・佐竹義堯公の銅像がありました。
1915年(大正4年)に建立された銅像は第二次大戦中に
供出されてしまいましたが、1989年に復元されたそうです。
江戸時代の初めに水戸から秋田に入った佐竹氏ですが、
江戸時代を通じ秋田に根を下ろし、庶民からも
慕われる君主だったように思います。
本丸のほぼ中央の東側に、裏門跡がありました。
裏門跡を抜け、裏門坂を見下ろした様子です。
裏坂には雪が深く積もっていました。
裏門跡の北には帯曲輪門跡がありました。
帯曲輪は、本丸の北側から西側にかけての外側に
帯状に繋がっている曲輪を差していると思います。
この帯曲輪門から坂道を下ると、久保田城の
北側の出入り口、土門跡へと繋がっていました。
帯曲輪門跡は本丸の北東部に位置しています。
本丸の北側に連なる土塁に沿って西に向かうと
土塁の上に御隅櫓が見えてきました。
御隅櫓に向かう土塁の様子です。
久保田城本丸の北側から西側にかけての
土塁は高さもあり、とても立派なものです。
この土塁の右手に御隅櫓が建っていました。
久保田城には8つの隅櫓があったそうで、
この御隅櫓はそのうちの一つだったようです。
久保田城には天守が建てられていなかったようです。
城内で最も高い位置にある西北隅のこの隅櫓は
物見の役割があったようです。
御隅櫓の北側に延びる土塁の様子です。
この土塁は高さが10m程もあり、本丸と反対の帯曲輪側は
高低差も大きく、かなり急に落ち込んでいました。
この後、本丸西側の土塁を南に向かいました。
この土塁も立派なもので、当時は
ここに多門櫓が建っていました。
この土塁はこの先、途絶えている個所がありました。
ここに、当時は多門櫓の下に埋門があったようです。
久保田城は、東から敵がやってくる想定で築かれているようで、
この埋門は、万が一の際の藩主の脱出用だった様に思います。
埋門跡から土塁の西側を歩いてみました。
高い土塁に沿って細長い帯曲輪が続いていました。
この先で、本丸の西南角に出ました。
この西南角は土塁の幅が広がり、
30m四方程度の平地が出来ていました。
この場所は、御出書院があった様です。
この御出書院は2階建てでしたが、ここからの
眺めは良く、天守代用の櫓ともされていたようです。
今は木が生い茂り、眺望も効きませんでしたが、
ここからは茶室がすぐ下に見えました。